日光道中や日光御成道、御成道に架かる和戸橋・国納橋などは、幕府道中奉行が沿道周辺村々の人々を動員しながら管理していた。これらについては次節以下で触れるので、ここでは村人たちが日常的に利用した村道、里道、野道、野良道などの維持・管理をみておこう。
宝暦十年(一七六〇)、笠原沼新田の水田一町二反三畝一八歩が質入れされた。土地名義は浅右衛門・重右衛門(せんうえもん・じゅううえもん)であったが、質入れに伴い、質主である喜右衛門(きうえもん)他三人の農民がその耕作請負人となった。この水田に幅三尺(約九〇センチ)あまりの道があったことから、質地証文のほかに「入置申道敷証文之事(いれおきもうすみちしきしょうもんのこと)」(戸田家文書)という証文が作成された。証文では、四人(質主・耕作請負人)がその道を含めて耕地を分割すること、今後新たに道を作るときには、検地帳登録の耕地に変更がないように作ること、新道は四人が相談・納得の上改めて地割りすることが決められた。当事者間で協議し、かつ土地台帳である検地帳に登録された土地の状況を崩さないという点を名主に誓約した。この道は耕地内・耕地間の農作業道であり、今でいう私道に近い。
村人が日常使う道については、それぞれの村で維持・管理されていた。道普請(工事)は村役で行われ、費用・人足は村民割負担であった。百間村のように村内で小集落(村・組)が分散している場合は、それぞれの村・組単位で負担していた。今日、道の清掃や側溝浚(さら)いなどを地区で行うとき、「道普請」という言葉が残っている地方もある。