3-81 「武蔵国郡村誌」にみえる橋
悪水路である落堀六筋と用水路二筋に二七の橋が架かっていた。御成道に架かる和戸、国納、前堀の三橋は幅二間と広いが、ほかの橋は一間三尺~四尺ほどであった。多くは木組みの上に土を盛って橋道を固めた土橋であった。隼人堀に架かる尼沼、台、北の三橋は木製であるが、幅四尺、長さ五間ほどの細長い橋であり、縦に長板を渡していたのではないだろうか。大きな板状の石を渡したと思われる石橋は、笠原落堀橋と京塚橋であった。
なお、架橋や橋の修復は工事費用がかさみ、維持・管理が必要なため、小荷物の運搬や日常の往来のみ必要な場所では、渡し船が使われた。杉戸・粕壁(すぎと・かすかべ)両宿間の古利根川に、三か所の渡船場があった。上流から、矢島の渡し(百間東村(もんまひがしむら)~堤根村(つつみねむら))、紺屋(こうや)の渡し(百間東村~本郷村(ほんごうむら))、ガッタの渡し(百間東村~小淵村(こぶちむら))の順になる。このうちガッタの渡しは、近世後期には板橋が架けられていた(『新編武蔵風土記』)が、明治前期には橋はない。幕末~明治にかけて、渡船場にかわったものと思われる。ガッタの渡しは島村家が経営に当たり、船賃二銭、幸手不動院(ふどういん)や小淵観音院(こぶちかんのんいん)(いずれも小淵村の修験寺院)の参詣に利用されたと伝える。「ガッタ」の由来は、橋の途中まで行くとガタガタしたため、渡船になる前の橋がガッタラ橋と呼ばれていたためだという。