天明七年(一七八七)、この年の大水によって流失した清地橋の普請が計画された(「清地土橋皆御入用御普請仕用帳写(せいじどばしみなごにゅうようごふしんしようちょううつし)」折原家文書)。もともと清地橋は、幸手(さって)領一一か村・百間(もんま)領六か村の計一七か村橋組合で管理され、架け替えや修繕が行われてきた。組合を構成する村々は、幸手領では倉松村、杉戸町(すぎとまち)、佐左衛門村(さざえもんむら)、大島村、上戸村、天神島村、吉野村、遠野村、安戸村、平須賀村であり、百間領(もんまりょう)では百間(本)村(もんま(ほん)むら)、百間中島村(もんまなかじまむら)、百間西村(もんまにしむら)、百間東村(もんまひがしむら)、百間西原組(もんまにしばらぐみ)、百間金谷原組(もんまかねやはらぐみ)であった。最初に願書が出された天明六年九月には、幸手領惣代は地元清地村(せいじむら)の名主治左衛門が、百間領惣代は百間村名主代の年寄市左衛門(いちざえもん)が勤めていた。こうした一村ないし数か村の組合が共同で管理や修繕費用を出費し、工事を行うことを「自普請」という。しかし、折から天明二年の浅間山噴火の影響で作物の不作が打ち続き、村々が大変難儀していたところであったため、今回は「御入用御普請」すなわち幕府の費用負担で架橋してくれるよう、橋組合が願い出たのであった。仕様帳には「皆御入用」とあることから、補助額は架橋費の全額であった。願書の中では特に「百間領中より杉戸宿御伝馬助郷ニ而日々往来候所、船拵□通路仕候而ハ、急御用御伝馬御差支ニも可被相成哉も難計奉存候」と、百間領村々の杉戸宿助郷に支障をきたすと述べている(伝馬助郷については第四節参照)。清地橋が「杉戸宿御伝馬道」に架けられた橋であることをよく表している主張である。また、幕府の公役である伝馬助郷役を根拠とすることで、全額補助を勝ち取ろうとする組合側の思惑もあったのだろう。
3-82 清地橋の現況
化政期の『新編武蔵』百間村の項では、清地橋は「土橋を架す、清地村と組合なるを以て清地橋といふ」とあるように、古利根川を挟んだ対岸の清地村(杉戸町)と百間村で共同管理していた土橋であるとしている。当時の清地橋は現在地より若干上流であったという。先に触れた天明の普請の仕様書によれば、橋の長さは一三間、横幅九尺ほどの橋であった。
3-83 百間村絵図にみえる清地橋 (岩崎家文書No.3489)