この工事では、百間西原組、金谷原組、百間中村、百間東村、中島村、百間村(本村)で費用をまかなっており、百間領側の組合自普請であった。事の起こりは、前年に須賀村の船乗り勘蔵(かんぞう)が船を通すために橋脚を広げたことにあった。その後、橋が大破してしまい、新規掛け替えで古形のとおり再建したため再び通船不能となってしまった。勘蔵は須賀村の重右衛門に仲立ちを頼み、橋組合へと再願した。橋脚を広げると余計な費用が掛かるにもかかわらず、百間村の橋組合では「隣村之事故、橋組合致納得、橋杭広遣し申候」と決まり、橋脚間の幅を船幅八尺より五寸ほど広めることとなった。このときの費用のうち、金四両一分は村高一〇〇石につき永一八八文六分四厘の割合で、組合村々に費用が割り当てられた。橋組合村間の連印議定書写(岩崎家文書)には、今後橋架け替えはもちろんのこと、修繕人足に至るまで、村高割をもって村々が負担する旨が記されている。
嘉永七年(一八五四)にも字川島橋の修繕が行われた(「字川島橋繕普請入用割合帳(あざかわしまばしつくろいふしんにゅうようわりあいちょう)」折原家文書)。このときの普請費用の内訳は、3-84の通りであった。
3-84 嘉永7年字川島橋普請費用内訳 (折原家文書)
材木代のほかに、清地村役人への酒肴代、普請初めの酒代、工事に立ち会った村役人への弁当代、人足慰労の酒代、工事用の土砂を取った場所(土取場)の地主への酒代など、交際費的な費用も書かれていて興味深い。清地村役人への酒肴代は、同村の役人へ再度にわたり普請の交渉をしたときのものである。百間領側の方が積極的に修繕普請を計画していたようである。天保や嘉永の事例から考えると、清地橋のことを字川島橋と呼んだのは、百間村組合のみによる自普請が行われた場合なのかも知れない。
嘉永の修繕では、総経費銭六貫八四八文は、百間領組合の村々に高一〇〇石につき銭三〇五文の割合で割り振られ、賄われた。負担額は、百間本村が銭九六〇文、百間西原南組が銭一貫一三五文、百間金谷原組が銭五二九文、百間中村が銭一貫一五九文、百間東村が銭二貫一三五文、百間中島村が銭九六四文であった。