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日光御成道(にっこうおなりみち)

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西粂原・国納・和戸(にしくめはら・こくのう・わど)には日光御成道が通っていた。御成街道ともいい、「御成」とは徳川将軍が御成りになる道という意味である。徳川家康(とくがわいえやす)を祀(まつ)る日光東照宮への徳川将軍家の参詣路であった。日光への参詣路は、別に日本橋・千住・草加・越谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋(にほんばし・せんじゅ・そうか・こしがや・かすかべ・すぎと・さって・くりはし)と続いていく日光道中が整備されていた。しかし、将軍が日光参詣に出かけるときには、日光道中ではなく必ず御成道を使った。日光に至る街道は、日光道中、日光御成道のほか、日光の火の番警備を勤めた八王子千人同心が利用した日光脇往還(千人同心道)、中山道から上州・野州を通って日光に至る例幣使(れいへいし)(朝廷から日光東照宮祭礼に毎年派遣された奉幣使)街道などがあった。
 日光御成道は江戸日本橋から中山道を通り、本郷追分(ほんごうおいわけ)(東京都文京区)で中山道から分かれ、岩淵宿(いわぶちじゅく)へ出て荒川を渡った。対岸の小川口村には、元和(げんな)八年(一六二二)川口宿(かわぐちじゅく)が置かれ、鳩ヶ谷宿(はとがやしゅく)、大門宿(だいもんじゅく)を経て、岩槻(いわつき)へ至った。岩槻は城下であり、岩槻城には初代高力(こうりき)氏をはじめ近世中期までは幕閣に名を連ねる有力譜代大名が封じられていた。江戸に最も近い城でもあり、将軍家や幕府にとって重要な位置にある城であった。

3-89 日光御成街道絵巻 (埼玉県立博物館所蔵)

 岩槻を出ると台地上に道が続き、幸手宿(さってじゅく)手前で日光道中と合流した。江戸~幸手間は一二里三〇町、うち岩槻~幸手間は四里であった。岩槻~幸手間には、一里塚が四か所あり、岩槻宿地内の道の左右に榎、相野原村地内の左右に松、上野田村(かみのだむら)地内に左右に榎、下野村(しものむら)(左)と下高野村(しもたかのむら)(右)地内に松が、それぞれ塚上に植えられ、通行者の距離の目安となっていた。

3-90 上野田の一里塚


3-91 日光御成道の宿場 (「日光御成道宿村大概帳」より)

 主に武家の公的な交通・通信のため、岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻は宿場として指定された(鳩ヶ谷宿は寛永十三年(一六三六)指定、大門宿は元禄十年(一六九七)指定、指定以前は馬継場)。当時の陸上交通は人と馬によっていたため、宿場では、人足二五人と馬二五匹が常備され、それを差配する問屋場が設けられた。また、大名や役人の宿・休泊施設である本陣・脇本陣が設置された。