3-92 徳川家康画像 (西光院所蔵)
将軍家の日光社参は、元和三年の二代秀忠(ひでただ)を初めとして、近世を通じて全一九回行われた。ただし、そのうちの一四回は、近世初期の秀忠(四回)、家光(一〇回)であり、家光以降社参を行ったのは、四代家綱(いえつな)(二回)、八代吉宗(よしむね)(一回)、一〇代家治(いえはる)(一回)、一二代家慶(いえよし)(一回)の四人だけである。社参の意味が変質したことがうかがわれる。すなわち、父(秀忠)や祖父(家光)に対する徳川家としての法要といった意味合いから、盛大に供を引き連れた示威行為への変化である。第一回の家康一周忌には多くの参列者があったが、その後の社参での供奉者は将軍身辺の者や側近などであり、それほど多くなかった。変化の端緒は、家光期にみられる。寛永九年に社参時の旗本従者数などを定め、制度的に整えていった。大造営がなった後の寛永十三年社参では、その行列が壮麗で人々の耳目を驚かしたという(『徳川実紀(とくがわじっき)』)。祖霊の参詣とともに、行列の通行など社参行為自体が儀礼として意味を持つようになっていったのである。特に将軍権威と権力の強化を図った八代吉宗以降は、神君の子孫としての支配の正統性や将軍権威を示威するための一大儀礼へと性格が変化していった。享保の社参では、供奉人一三万三〇〇〇人、人足を含めた総数は二二万八三〇六人、馬は三二万五九〇〇匹にも達した。人馬は関八州のうち約一万一〇〇〇か村から、高一〇〇石につき人足五人・馬七匹の割合で国役として徴発された。
3-93 徳川将軍家の日光社参
(『徳川実紀』及び杉山正司「日光御成道の成立と将軍社参」所収の表をもとに作成)