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将軍の日光社参

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元和二年四月十七日、戦乱の世に終止符を打ち江戸幕府を創設した大御所徳川家康(とくがわいえやす)が、享年七五才で没した。遺骸は没地である駿府(すんぷ)(静岡県静岡市)の久能山へ一旦葬られ、遺言により一年後下野国日光山(しもつけのくににっこうさん)(栃木県日光市)に改葬された。家康は死後東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号を許され、神として祀(まつ)られることになり、歴代将軍の厚い崇敬を受けた。元和四年には、江戸城内紅葉山にも東照社が勧請された。時代が下るにつれ家康の業績は伝説化され、神話となっていった。歴代将軍のうち、三代家光(いえみつ)は度々家康の霊夢を見て、自らも死後日光の霊廟(大猷院廟(だいゆういんびょう))に祀られた。また、寛永の大造営といわれる日光東照社の増改築を命じ、寛永十三年竣工して今日伝わる絢爛豪華な日光山の建築が完成した。そして正保(しょうほう)二年(一六四五)東照社に宮号が許され、東照宮となった。後、享保の改革を断行した八代吉宗(よしむね)は、政治姿勢として何事も権現様(家康)が決めたとおりというスローガンを掲げ、五代綱吉(つなよし)から絶えていた日光社参を大規模に再開した。このように徳川将軍家にとって、家康は大変大きな存在として神格化され、崇敬されたのである。

3-92 徳川家康画像 (西光院所蔵)

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 将軍家の日光社参は、元和三年の二代秀忠(ひでただ)を初めとして、近世を通じて全一九回行われた。ただし、そのうちの一四回は、近世初期の秀忠(四回)、家光(一〇回)であり、家光以降社参を行ったのは、四代家綱(いえつな)(二回)、八代吉宗(よしむね)(一回)、一〇代家治(いえはる)(一回)、一二代家慶(いえよし)(一回)の四人だけである。社参の意味が変質したことがうかがわれる。すなわち、父(秀忠)や祖父(家光)に対する徳川家としての法要といった意味合いから、盛大に供を引き連れた示威行為への変化である。第一回の家康一周忌には多くの参列者があったが、その後の社参での供奉者は将軍身辺の者や側近などであり、それほど多くなかった。変化の端緒は、家光期にみられる。寛永九年に社参時の旗本従者数などを定め、制度的に整えていった。大造営がなった後の寛永十三年社参では、その行列が壮麗で人々の耳目を驚かしたという(『徳川実紀(とくがわじっき)』)。祖霊の参詣とともに、行列の通行など社参行為自体が儀礼として意味を持つようになっていったのである。特に将軍権威と権力の強化を図った八代吉宗以降は、神君の子孫としての支配の正統性や将軍権威を示威するための一大儀礼へと性格が変化していった。享保の社参では、供奉人一三万三〇〇〇人、人足を含めた総数は二二万八三〇六人、馬は三二万五九〇〇匹にも達した。人馬は関八州のうち約一万一〇〇〇か村から、高一〇〇石につき人足五人・馬七匹の割合で国役として徴発された。

3-93 徳川将軍家の日光社参
(『徳川実紀』及び杉山正司「日光御成道の成立と将軍社参」所収の表をもとに作成)