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日光御成道の成立

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日光御成道の成立は、この将軍家社参と深くかかわっている。社参の意味や規模が変化するにつれ、道筋や宿駅が次第に整っていった。
 社参ルートに注目すると、初期には少なくとも第一回、第九回、第一五回の社参では、日光道中を通り越谷(こしがや)から岩槻(いわつき)に至るルートをとっており、江戸~岩槻間のルートは一定していなかったことが分かる。
 一方で岩槻~幸手間のルートは一貫していた。したがって日光社参ではすべて宮代町域を将軍が通行したと推定される。近世後期までには西粂原村には、鹿室(かなむろ)、下野(しもの)などとともに社参の節の御馬口洗場が設けられていた。いわば将軍の小休所である。なお、慶安二年(一六四九)には、杉戸から日光道中に入っているので、御成道以外のルートで町域を横断した可能性が高い。
 社参ルートは、例外はあるがほぼ岩槻、古河(こが)、壬生(みぶ)、宇都宮(うつのみや)などの諸城に将軍は宿泊したので、当初はそこに通じる整った道であればよかったのだろう。これが第一二回以降は、将軍社参はいわゆる御成道の道筋に固定されてくる。ただし、御成道筋であっても、当初のルートは中世鎌倉道中道であり、例えば鳩ヶ谷(はとがや)~岩槻間は大門へ寄るのではなく、大門手前の貝殻坂というところから旧鎌倉道を通り岩槻へと至っていたことが指摘されている。いずれにせよ、初期には江戸~岩槻間のルートは一定せず、道の状況や都合のよい道、中世来の旧道などを通り、次第に一般に御成道とされているルートに慣例化していったのだろう。
 万治二年(一六五九)道中奉行の新設など江戸幕府の交通行政が整備されてくると、御成道とその宿駅は日光道中の付道として道中奉行によって日常管轄されることとなった。道中奉行は当初大目付兼帯の役職で、後、大目付・勘定奉行から各一人、計二人が兼帯した。
 正徳元年(一七一一)には、幕府の御朱印や証文など携帯した公用通行者が利用する、馬の駄賃と人足賃である御定賃銭が道中奉行によって定められた。各宿で用意された馬は、荷物のみを運ぶ本馬(本駄賃)、人が乗って荷をつけた乗掛(懸)、人のみが乗る軽尻に三別された。岩槻~幸手間は本馬と乗掛は一六二文であり、軽尻馬は一匹一一〇文であった。夜通し急いで通行する場合は、軽尻であっても本駄賃と同じ額を支払った。人足は一人七九文であった。天保九年(一八三八)には御定の一割五分増となり、本馬・乗掛とも駄賃は一八六文、軽尻馬一匹は一二六文、人足一人は九一文と改められた。実際には、民間の相場とも関連して、人馬賃高騰の折には割り増しで支払われたことがあった。