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御成街道沿いの村々 西粂原・国納・和戸

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御成道沿いの村々について、『日光御成道宿村大概帳(にっこうおなりみちしゅくそんたいがいちょう)』よりみてみよう。同書は幕府道中奉行配下の五街道と脇往還の概要を記した本で、戸口は天保十四年の調査、人馬賃銭は安政六年(一八五九)までの額が記されている。
 西粂原村地内では、御成道は往還長左側五一〇間半、右側五一六間、道幅四~六間ほどであった。家々は少なく、左(五〇〇間余)右(五〇六間)には並木が続いていた。往還の掃除や維持・管理は、往還付の家々(居村町場)が一九三間ほど受け持ち、残りの三二二間ほどは近隣の高岩村が割り当てられ負担した。国納村境に境界表示の棒示杭が立っていた。将軍社参のときは御馬口洗場となっていた。

 


3-97 日光御成街道分間延絵図((独)東京国立博物館所蔵)にみる西粂原・国納・和戸付近

 国納村では、往還長左側一六〇間余、右側一六八間余、道幅四間ほどであった。家々は多く並木はなかった。掃除は二八間ほどが居村町場、一三六間余は百間村が分担した。元禄十六年百間村の分村と領主の相給(あいきゅう)が進み村高が細分化されたことから、百間村が負担の免除を願い出たことがあった(「日光御成海道道拵役免除願」折原家文書)。西粂原村境と和戸村境に境界表示の棒示杭が立っていた。
 和戸村では、往還長左側三四五間、右側三三七間、道幅四間~五間であった。家々は少なく、並木が左(九〇間)右(一一二間)に続いていた。掃除は、九二間が居村町場、三六間が百間西村、一三〇間が太田吉羽村、六三間が東粂原村、一六間が蓮谷村であった。
 このほか、国納村境と下高野村境に境界表示の棒示杭が立っていた。なお、町域では須賀村も上野田村内の往還三六一間の掃除場を分担していた。