3-98 日光御成道にかかる橋 (「日光御成道宿村大概帳」より作成)
西粂原村の三橋は、天保期以前には土橋だった時期があり、そのころは徳川御三卿の一橋家が架け替えや修繕工事に当たり、費用を出していた。当村が一橋家の鷹場や領地に属していたからであろう。その後、石橋となり、村方で架け替え費用を出し、自普請で行うようになった。
国納村の土橋、国納橋は、享和二年(一八〇二)には幕府代官による普請が行われた。安永五年(一七七六)の社参では、国納橋と和戸村の(備前)前堀橋の架け替えが行われたようで、架け替えに人足や費用を負担したのは埼玉郡油井ヶ島村(ゆいがしまむら)、常泉村(つねいずみむら)(以上加須市(かぞし))、中曽根村(なかそねむら)(久喜市)、割目村(わりめむら)(加須市)、六万部村(ろくまんぶむら)、上清久村(かみきよくむら)、下清久村(しもきよくむら)、所久喜村(ところぐきむら)、下早見村(しもはやみむら)、樋ノ口村(ひのくちむら)、青柳村(あおやぎむら)、上早見村(かみはやみむら)(以上久喜市)、野牛村(やぎゅうむら)、新(荒)井新田村(あらいしんでんむら)(以上白岡町)、新堀村(にいぼりむら)、戸ヶ崎村(とがさきむら)、三箇村(さんがむら)(以上菖蒲町(しょうぶまち))、久本寺村(鷲宮町)(くほんじむら(わしみやまち)))の堀筋一八か村であった。このときさらに幸手宿へ臨時の加助郷を申し付けられそうになり、負担加重であるとして嘆願したこともあった(安永五年「日光社参触書書写帳」さいたま市福島家文書)。また、元治(げんじ)元年(一八六四)江面村(えづらむら)と下早見村(久喜市)では、国納橋の橋役を務めていることを理由に、正徳五年(一七一五)から日光道中幸手宿の助郷は半高役免除(村高の半分は負担を免除されること)であるとしている(「幸手宿助郷勤高書上帳(さってじゅくすけごうつとめだかかきあげちょう)」慶応大学経済学部古文書室蔵)。橋役とは橋の普請人足や費用の負担であり、村々の負担加重にならないようこうした減免措置がとられた。
3-99 日光御成道にかかる国納橋
和戸村の石橋二橋は自普請、字前堀橋は備前前堀が騎西領の悪水路であったため、騎西領一六か村組合の自普請であった。和戸橋は天明元年(一七八一)、同七年、寛政四年(一七九二)の川々普請の時は幕府による御普請が行われた。
3-100 日光御成道にかかる和戸橋