3-103 日光道中の宿場(『日光道中宿村大概帳』より作成
宿場の成立時期は、町域と関係の深い粕壁・杉戸・幸手の三宿についてみてみると、粕壁宿は慶長十六年(一六一一)往還割り(「公用鑑(こうようかがみ)」粕壁宿文書)、杉戸宿と幸手宿は元和二年取り立て(『新編武蔵風土記』)と伝えている。ただし、例えば粕壁宿へは、天正十八年(一五九〇)岩槻城に入った徳川家家臣高力清長(こうりききよなが)によって住民の帰住と「糟壁新宿(かすかべしんじゅく)」の取り立てが命じられており(寅年「高力清長印判状写」春日部市関根家文書・寅年を慶長七年とする説もある)、また杉戸宿については、『正保田園簿』中の「武蔵国道法(むさしのくにみちのり)」には名がみられないなどの問題もあり、それぞれ検討の余地がある。
宿場の最も重要な役割である宿人馬の継ぎ立ては、千住~粕壁宿の各宿では人足五〇人・馬五〇匹であった。しかし、粕壁宿では享保期に三五人、三五匹となっている。残り一五人、一五匹は、宿で準備するのではなく余荷助郷として、近隣村の負担となっていた。杉戸より先の宿場は二五人、二五匹で、非常用に確保された囲人馬は各宿五人、五匹であった。問屋場はそうした人馬を差配するための施設で、宿役人として問屋役がおかれた。各宿はこうした伝馬役を負担することに対して、地子一万坪が免除されていた。御定賃銭は正徳元年では、粕壁~杉戸間が①本馬・乗掛六一文、②軽尻四一文、③人足三一文、杉戸~幸手間が①六八文、②四六文、③三五文であった。天保九年以降一〇年間は一割五分増しとなり、粕壁~杉戸間①七〇文、②四七文、③三六文、杉戸~幸手間①七八文、②五三文、③四〇文とされた。また弘化二年(一八四五)以降五か年は、粕壁~杉戸間四割五分増しの①八八文、②五九文、③四五文であった。公用通行の宿泊費である木賃銭は、正徳元年に各宿とも主人一人三五文、召仕一人一七文、馬一匹三五文と定められた(『日光道中宿村大概帳』)。