例えば、粕壁宿では、宿側で用意する人馬数をめぐって、享保十三年助郷村々と争論になり、助郷負担の基準、村々の負担の公平化、日〆帳・通帳などの帳簿の整備と管理などについて、宿側と助郷村々の間で取り決めがなされた(「公用鑑」粕壁宿文書)。このときの取り決めは、後々まで粕壁宿助郷の基準となった。
また杉戸宿では、安永期と天明期に宿側と助郷村々との間で議定を取り交わしていた。それぞれの議定の内容については不詳の点も多いが、安永の議定では杉戸宿の宿常備の人馬数(二五人二五匹)が確認され、安永と天明の議定では助郷人馬割り当ての不正防止が図られていたようである(弘化三年「済口証文扣」岩崎家文書)。このうち天明の議定と関連すると思われる、百間八か村(百間村・中村・中島村・久米原村・西粂原村・蓮谷村・金谷(原)村・西原村)で交わされた天明七年の議定書(岩崎家文書)では、「このたび杉戸宿助郷村々の勤め方について、是迄吟味が行き届かなかったところがあるので、村々参会の上相談して御伝馬役勤め方について取り決めた」とあり、村高一〇〇石につき銭二二貫文差し出すこと、また日光門主および将軍名代の通行時の継ぎ立て人馬数について取り決めた。高割りで村々が人足や馬ではなく、銭を出費しているのは、正月から三月は組合村々で人足や馬を購入(買人馬)し、四月から十二月までは百間中島村の請負人喜兵衛・吉左衛門(きへえ・きちざえもん)を通じて、人馬を雇ったからである。このころには村々が直接人馬を差し出す正人馬勤(せいじんばづとめ)ではなく、費用だけを用意して差出人馬に振り替える「雇替」が、助郷の一般的な方法となっていた。ただしその出費がかさむようになると、逆に正人馬勤を願い出る場合もあった(弘化元年「百間村西原両組議定連印帳」新井家文書)。
3-107 天明7年杉戸宿伝馬役助郷の議定書 (岩崎家文書)
度々の取り決めにもかかわらず、弘化三年(一八四六)杉戸宿助郷村々は、宿役人と問屋、助郷惣代を相手取り、宿側と惣代が結託して人馬の割り当てや費用徴収に不正を働いているのではないか、として道中奉行へ訴えた(「済口証文扣」岩崎家文書)。村々の不満点は、宿役人と助郷の惣代が馴れ合って酒代などをねだったり、杉戸宿のみの問屋場定式銭(とんやばじょうしきせん)や茶代を村々から割り取ったりしたこと、正人馬勤めであるにもかかわらず買人馬を行ったりしたこと、鷹匠や普請役の通行や先触のない通行、無賃人馬に助郷人馬を割り当てたこと、文化・文政期には高一〇石につき四貫五~八〇〇文の雇い替え賃銭だったものが、今では八貫文余りに高騰したこと等々多岐にわたっていた。これに対し宿側も、杉戸宿の場合は会所が無く手弁当で宿役人や問屋が人馬の差配を行っていること、実際の人馬通行は必ずしも先触通りにはいかず、現場で手配を変更したりしなくてはならないこと、正人馬勤であっても不参したり弱った馬が差し出されたりすることがあるので買人馬を行ったこと等々を釈明した。結局、この争論は示談となり、宿常備の人馬を囲い人馬を除き一人増の二一人二一匹とすること、村々は間違いなく正人馬勤を行い、万一病人病馬が出たとき雇い替えにすること、助郷惣代の勤め方と人選を適正化すること、そのほか全一二か条にわたって取り決められることになった。