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にぎわう宿場

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天明三年のことである。百間村の川島に住む大工庄蔵の倅小七(せがれしょうしち)が、十月二十五日夜杉戸宿の旅籠(はたご)太田屋の女中みよしを連れ立って家出するという事件がおこった。太田屋はいわゆる飯売旅籠(めしうりはたご)であった。彼らは一時かくまわれていたが、結局金子(きんす)七両でみよしの身請けをして女中奉公から解放し、小七とみよしはそれぞれ親元へ帰ることとなった(「入置申引取証文之事」岩崎家文書)。古文書が破損していて、かくまった人物については詳しく分からないが、この一件から、宿場町は近隣の農民たちにとって、伝馬役勤の負担だけではなく、飯売旅籠などがある遊興の場であったことが分かる。中には飯売旅籠の女中と恋に落ち、小七とみよしのように駈け落ちを試みるものもいた。
 正人馬勤の助郷で宿場へ差し出される村人は、老人や子供では十分に勤まらないので、主に壮年の若者たちが手配された。宿場町のさまざまな誘惑は、血気盛んな若者たちによる駈け落ちや風儀の乱れを助長したのであろう。天明八年に助郷組合の村々は、杉戸宿飯売旅籠の営業停止を願い出ている(「組合村々議定連印帳(くみあいむらむらぎじょうれんいんちょう)」岩崎家文書)。飯売旅籠などがあると、宿へ出かけた若者たちが、帰宅せずに遊びまわり、農業の差し障りになるというのである。
 弘化元年百間西原組では、雇替賃銭の高騰を理由に助郷の正人馬勤を願い出た。その中で、正人馬勤を行う際の守るべきこととして、宿で女買をした者は罰金として過怠銭一貫文を差し出すことを取り決め、大切に伝馬役を勤める旨を誓った。また、伝馬勤で杉戸宿へ出かけたときに、米・麦・雑穀・薪・前栽もの(野菜)・酒・酢・荒物(雑貨)などの売買を禁じた(「百間村西原両組議定連印帳」新井家文書)。こうした取り決めから、助郷人馬勤の時には、近郷の者たちが杉戸宿で遊興や日常品の購入を行っていた様子が逆にうかがえよう。こうしてみると、村々にとって助郷は、加重な負担という側面だけでなく、村人たち、特に若者の遊興や消費を促す機会でもあったと思われる。それは恐らく日常でも同様であり、宿場はそうした人々の集うにぎやかな場所だったのだろう。

3-108 安藤広重 日光道中杉戸宿
(埼玉県立博物館所蔵)