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諸宗寺院法度の制定と本末制度

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江戸幕府は成立当初から将軍を中心とする中央集権的な支配体制を目指し、仏教伝来以来、寺院は荘園を形成するなど独自の勢力を持ち、体制の枠外の勢力であった寺院に対しても統制を加えている。幕府成立以前の慶長二年(一五九七)の関東浄土宗法度をはじめ、元和(げんな)二年(一六一六)の諸宗寺院法度の制定に至るまで、さまざまな法度を制定している。元和二年の諸宗寺院法度では、本寺・末寺の関係を強化し、僧侶の修学や修法、資格、僧階などを定め、学問を奨励している。その後、寺院本末帳を作成し、本末関係の整備を図っている。寺院本末帳の作成により、全国の寺院が宗派ごとに本山の支配下に置かれ、幕府は本山を支配することにより、全国の寺院を支配する機構を整えたのである。
 百間東村(もんまひがしむら)の西光院(さいこういん)は、新義真言宗の寺院で、醍醐(だいご)三宝院末寺である。『新編武蔵風土記』には、「末寺・門徒・塔中(たっちゅう)二七ヶ寺あり」との記載があり、延享二年(一七四五)の「武州百間西光院門末帳(ぶしゅうもんまさいこういんもんまつちょう)」によれば、末寺として動仏村(百間中島村)医王院(どうぶつむら(もんまなかじまむら)いおういん)、中曽根村(春日部市)海善院(なかそねむら(かすかべし)かいぜんいん)、西原村(西粂原村)明智寺(にしはらむら(にしくめはらむら)みょうちじ)、杉戸町宝性院(すぎとまちほうしょういん)の四か寺の記載が見られ、門徒として寺村(百間東村)広照坊((もんまひがしむら)こうしょうぼう)、東光院(とうこういん)、明積坊(みょうせきぼう)、池之坊(いけのぼう)、大蔵坊(おおくらぼう)、不動坊(ふどうぼう)、大善坊(だいぜんぼう)、観音寺(かんのんじ)、弥勒寺(みろくじ)、宝性院(ほうしょういん)、青林寺(しょうりんじ)、金谷原村(百間金谷原組)遍照院(かねやはらむら(もんまかねやはらぐみ)へんじょういん)、宮崎坊(みやざきぼう)、煤戸村(百間西原組)地蔵院(すすどむら(もんまにしはらぐみ)じぞういん)、内牧村(うちまきむら)(春日部市)観音院、智明院、久米原村(東粂原村)大聖院(くめはらむら(ひがしくめはらむら)だいしょういん)、若宮村(百間中島村)青蓮院(わかみやむら(もんまなかじまむら)しょうれんいん)、内野村(百間西原組)正福坊(うちのむら(もんまにしはらぐみ)しょうふくぼう)、杉戸町真蔵院(すぎとまちしんぞういん)、三本木村(杉戸町)満福寺(まんぷくじ)、並塚村(ならびづかむら)(杉戸町)西方院(さいほういん)、倉常村(庄和町)香取坊(くらつねむら(しょうわまち)かとりぼう)の二三か寺の記載が見られる。

3-110 武州百間西光院門末帳 (西光院所蔵)

 『風土記』の記載から町内の西光院の末寺を見ると、百間村の青林寺、遍照院、百間中村の宝生院、百間中島村の医王院、久米原村の明智寺、大聖院があり、門徒として百間村の地蔵院、百間中島村の青蓮院、百間中村の弥勒院がある。また、門徒の記載は見られないが、宮崎坊の記載も見られる。
 このほか新義真言宗の寺院には、国府間村(こうまむら)(幸手市)正福寺(しょうふくじ)末として国納村(こくのうむら)の華蔵院(けぞういん)、須賀村(すかむら)の真蔵院(しんぞういん)、和戸村(わどむら)の西方院、観音堂がある。また、曹洞宗の寺院は、西粂原村の宝光寺(ほうこうじ)、須賀村の長福寺(ちょうふくじ)、金剛寺(こんごうじ)があり、すべて白岡村(しらおかむら)興善寺の末寺であり、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院は、牛島村(うしじまむら)(東京都墨田区)弘福寺(こうふくじ)末の百間村の松永坊(しょうえいぼう)、浄土宗の寺院は、岩槻浄国寺末の百間東村の浄林寺(じょうりんじ)、日蓮宗の寺院は、日蓮正宗総本山である駿河大石寺(するがたいせきじ)末の東粂原村の妙本寺(みょうほんじ)がある。また、本山修験で幸手不動院(さってふどういん)(春日部市)配下の寺院として須賀村の龍光院、和戸村の文殊院(もんじゅいん)、本覚院(ほんがくいん)がある。