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祭道公事

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近世以前の墓は、一部寺院に見られるだけで、戦国時代末まで寺院僧侶は、人々の墓や葬式などに関係することはまれで、通常は勧進聖(かんじんひじり)や修験(しゅげん)・密教系の祈祷僧侶が村々を回って行うのが常であった。
 徳川家康が関東に入国すると、後北条氏時代には山伏たちに認められていた、葬式引導の場における祭道の儀式を執行することが禁じられた。しかし、山伏たちは、祭道役、注連祓役は大切な収入であり、度重なる禁止令にもかかわらず葬式引導の場に入り込む事態が発生している。岩槻市大字飯塚(いいづか)の法華寺(ほっけじ)に伝わる龍派禅珠(りゅうはぜんしゅ)(川口市芝長徳寺住持(しばちょうとくじじゅうじ))の文書によると文禄四年(一五九五)徳川家康の信頼が篤かった龍派禅珠が法華寺住持明室是俊に対し、修験の山伏と法華寺との間で争われていた祭道訴訟について、徳川家康の裁許により非分に決定されたことが、関東各地の禅宗寺院に伝達されている。また、『寒松日記(かんしょうにっき)』には、禅珠が葬儀の引導を勤めた際、修験の祭道衆が強引に祈祷を勤め、祭礼の道具を奪い取るなどの狼藉を働き、妨害したことが公事の発端で、前記のように文禄四年に徳川家康から祭道公事の法度(はっと)が出されている。
 以後、葬儀、墓地、法要などの行事が広く一般寺院でも行われるようになり、特に三年忌、七年忌、一三年忌、二五年忌、三三年忌、五〇年忌などの一〇回の法要形式が確立されていった。また、人々は自家の葬祭などを永続的に寺院に委託する習慣もこのころに出来上がった。しかし、寺院の境内に葬るという習慣はまだなかったが、人々の墓地が寺院の管理下に入って行く過渡期であった。
 こうして近世の仏教は、大きく変化していった。