草創は行基で、開基は安部清明といわれている。「西光院殿宇再建立勧化状」には、その昔、聖武天皇(しょうむてんのう)の御宇に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が遍歴していた天平十一年(七三九)の春、当地に至ると五人の老翁が出現して、済度利生(さいどりしょう)の善行を行基菩薩に求めたため、行基は、阿弥陀堂を建立した。ここに常陸の大守安部仲麻呂(あべのなかまろ)が二百余町を寄附し、かつ家臣の鈴木左近将監重正、島村主計頭忠與、中島左衛門尉吉房を奉行とし精舎を作り、敷地は東西八町、南北六町を結界し、その所に門を建て金剛神を勧請したのが始まりと伝える。地名のモンマ(百間)は、この地を開いた阿部仲麻呂が、常陸国門馬(ひたちのくにもんま)の出身のため、その地名をもって称するようになったと伝えているが、行基が阿弥陀仏一〇〇体の彫刻の宿願をもって、これが成就したので百間と称するようになったともいう。
境内地は、二万八二〇〇坪を有し、本坊、客殿、東照宮、稲荷社、土蔵、長屋、地蔵堂、準胝堂(じゅんていどう)、阿弥陀堂、鐘樓堂(しょうろうどう)、稲荷社、五社権現(ごしゃごんげん)、雷電社(らいでんしゃ)、弁天社(べんてんしゃ)、聖天社が建ち並ぶ大刹であった。阿弥陀堂は本堂とも称され、阿弥陀如来(あみだにょらい)、観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至菩薩(せいしぼさつ)、不動明王(ふどうみょうおう)、毘沙門天(びしゃもんてん)、脱衣姿(だつえば)、行基坐像(ぎょうきざぞう)を祀り、これらの像は行基の作という。阿弥陀如来には、安元二年(一一七六)の造立銘がある。地蔵堂は、この所に行基が履を掛けた所の故をもって履掛地蔵(くつかけじぞう)と称しているが、一説には舟山地蔵ともいう。準胝堂は、観音堂とも称し準胝観音を祀る。これも行基の作と伝えている。東照宮は、中興二世日誉が拝領した御画像の神影を祀る御宮として造立されたものである。五社権現は、行基の前に現れた老翁五人は五社権現である熊野三社(阿弥陀三尊)、山王社(不動)、白山社(毘沙門堂)の化身であり、創立は天平十一年と伝えている。雷電社は、天文二十二年銘の鰐口を社殿にかけていた。
塔頭(たっちゅう)は、東光院、観音寺、不動坊、大蔵坊、大善坊、明積坊、広照坊(広照院)、池之坊があった。東光院は境内地二七四八坪五合で、建物は五五坪。観音寺は境内地二四五二坪二合で建物は三四坪、境内地には二間半四方の観音堂や観音堂番所があった。不動坊は、境内地五九八二坪四合で建物は四三坪、境内地には二間に二間二合の天満宮社がある。大善坊は廃坊となっているが境内地は一九四七坪三合であった。明積坊は、境内地三一七二坪で建物は一九坪二合五勺である。広照坊は、境内地一三〇〇坪六合で建物は一九坪二合五勺であった。池之坊は、廃坊となっているが境内地六二四坪であった。なお、西光院は、中本寺に属し、本寺・門徒・塔頭は、3-116のとおり二七か寺に及んでいた。
3-116 西光院末寺一覧(延享2年)
歴代住職は、3-117のとおりであるが、戦国期末から近世初頭の住持については問題点もあり今後の調査課題とする。第二世円祐は、日誉の弟子である。日誉は西光院で学び、字を正純、一名を日祐という。武蔵国の豪族小野寺氏の子で、幼くして西光院日雄僧都の室に投じて剃髪し、密教の学業を学び、三〇歳のとき根来(ねごろ)山(和歌山県)に登り日秀・頼玄の二哲について学び、天正十三年根来山が豊臣秀吉の兵火にかかったため高野山(和歌山県)に逃れ、次いで西光寺(院)に迎えられて同寺に住し、間もなく長谷寺の専誉僧正に従って密教の秘旨を承け、次いで智積院の玄宥僧正に謁し、慶長十一年近江の総持寺(そうじじ)の住持となった。徳川家康には、重んじられ、命により智山に入り、祐宜僧正の後嗣となり、駿府(すんぷ)に法筵(ほうえん)を張り、智積院法度(ちしゃくいんはっと)を賜わった。元和元年祥雲禅寺を受け、これを改めて智積教院とし、智山の基礎を作り、後に僧正に任ぜられ、寛永八年(一六三一)大報恩寺に隠棲し、同十七年十一月二十日に八五歳で没した。著書には、根嶺破滅記、隠棲記、釈論第三重私、大疏第三重私などがある。
3-117 西光院歴代住職
御朱印高五〇石である。
新四国八十八ヶ所の第八八番結願寺で百間山西光院と称され、ご詠歌は「まいるより くもらぬそらに ちかひして にしのかたてる つきををがミて」と詠われている。
3-118 日光道中分限延絵図にみられる西光院
((独)東京国立博物館所蔵)