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真蔵院

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須賀村に所在し、宗派は新義真言宗である。内国府間村(幸手市)正福寺の末寺で、医王山大福寺と称し、本尊は不動明王を祀っている。本尊不動明王の体内にも不動明王を祀っているという。開山長宥は、仁治(にんじ)三年(一二四二)八月六日に没した。
 境内薬師堂の本尊薬師如来(やくしにょらい)は、「身代薬師(みがわりやくし)」と称され、人々の信仰を集め、毎年二月十六日には〝薬師様の縁日〟と称される縁日市が立っていた。「身代り薬師」とは一説には、その昔陸奥国会津(むつのくにあいづ)の伊藤修理大夫光家(いとうしゅりだいふみついえ)が、北条泰時(ほうじょうやすとき)の長男時氏に仕えていた仁治のころ(一二四〇~一二四三)、当地を通過する際に、野武士に囲まれ危かりしとき、この薬師様が、光家の身代わりとなって、光家を助けたので、この名がついたといわれている。
 鐘楼堂は、文化三年(一八〇六)に再建されたが、入口の長屋門形式の仁王門は文化九年に造立された。仁王門にかかげられている額の書は三井親和(しんな)による。岩槻藩士児玉南柯(こだまなんか)は、和戸、須賀などの俳人たちとの交流が深く、「児玉南柯日記」にも真蔵院に関する記述がみられる。

3-120 明治34年の真蔵院境内配置図 (埼玉県立文書館所蔵)


3-121 真蔵院仁王像

 児玉南柯は文化二年三月十二日に、源五・士武・玄亭と共に須賀村真蔵院に花見に訪れ、源五と杉戸に宿泊している。花見の際には、「世の塵をへたつ霞そ春ふかき 色もたえなる法の花園」、「花見れハ心もひらく法の庭 いかてこの色むなしとハとく」と詠っている。翌三年三月四日には、周文と和戸に行き、士武を連れて須賀村の薬王殿の前で宴を開き、その後士武と和戸へ宿泊している。同四年三月十四日には士武と医王山真蔵院に赴き、鐘楼に登り花見をし、「山寺の春のゆふへの花のかけ のとかにそきく入相の鐘」と詠っている。さらに文化六年(一八〇九)四月十二日も士武とともに真蔵院を訪れている。