第七世法印乗翁、第八世法印乗隆の代に寺子屋が開かれていた。境内地には、小島平右衛門(こじまへいうえもん)が西国、坂東、秩父百ヶ所を巡礼した供養として享保十二年(一七二七)に笠付宝篋印塔を造立している。
新四国八十八ヶ所の開闢には和戸村の小島七左衛門、小島平右衛門、小島清太郎が参画しており、この新四国八十八番の第七三番で和戸村岩巌山西方院と称され、ご詠歌は「うらやましいかなるひとのわたるらん われをミちひけ のりのはしもり」と詠われている。
文久三年(一八六三)の西方院本堂絵図には、境内八反六畝六歩は除地とあるが、和戸村明細帳(鈴木家文書)には境内七反五畝二六歩とある。村内の第六天、浅間宮、愛宕権現宮は、西方院の抱で、三社の合計二反三畝二三歩は除地となっている。
3-122 和戸村明細帳
(鈴木家文書)