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さまざまな災害

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天変地異は、科学が発達した今日の私たちに対しても、大きな被害をもたらすことがある。人は、自らの暮らしを安定化させ、生産や生活の水準を向上させるため、どの時代においても自然への働きかけを行い、絶えず努力してきた。しかしながら、いまだ自然を克服できていないのも、また現実である。
 農業を中心とした近世宮代の村人たちのなりわいや暮らしは、今日よりもはるかに自然と密着しており、人力の及ぶ限り自然を利用したものであった。従って、逆にひとたび大規模な洪水や火山噴火、地震などが発生したり、冷夏などの異常気象がおこると、その被害は大きなものとなった。
 江戸時代の三大飢饉(ききん)のうち、享保(きょうほう)十七年(一七三二)の飢饉は、西日本の蝗害(こうがい)(イナゴの大量発生)によるものであったが、天明四年(一七八四)の飢饉は、前年の浅間山噴火の影響を受けた凶作や洪水によるものであり、天保(てんぽう)四~七年(一八三三~三六)の飢饉は、冷害・洪水・大風雨などの異常気象によるもので、特に東北地方に被害が大きかった。
 3-138は、現埼玉県域で被害の大きかった近世の災害を抜き出したものである。洪水による被害が多かったことが分かる。利根川・荒川などによって形成された沖積平野であり、近世に沖積地の農地開発が進んだ県域の特徴をあらわしていよう。洪水による冠水・流失だけでなく、稲の収穫期の長雨などによっても水腐などの被害が生じるし、逆に旱魃(かんばつ)になると作物の立ち枯れとなる。そのほか雹害(ひょうがい)や霜害などの天候不順は、農家の泣きどころであった。

3-138 埼玉県域近世災害年表(『図録春日部の歴史』より)

 とりわけ、十六世紀半ばから十九世紀半ばまでの間は、世界的に小氷期といわれる気候環境にあり、十七世紀初めには現在より江戸の冬の気温は一~一・五度低く、十八世紀には江戸の夏の気温は現在より一~一・五度低かったといわれている。また、浅間山など日本列島の火山噴火が低温・集中豪雨などの異常気象をもたらした可能性も指摘されている。
 こうした、大きな範囲での異常気象と凶作とともに、小さな地域での災害、不作もあった。村々から願い出される不作による年貢の減免願などによって、それをうかがうことができる。以下、町域の旗本池田氏領百間三か村の資料を中心に、水害、旱魃、地震についてみていこう。