このとき、仮の年貢割付状(仮免状)を受け取りにたまたま江戸へ出ていた須賀村新田の中村浅右衛門から、中島村岩崎文治郎へ宛てた書簡があるので、その文面をみてみよう(「(地震大地荒われ目墨引きニ付書状)」岩崎家文書)。
3-142 地震大地荒われ目墨引きニ付書状
(岩崎家文書)
十月二十一日の日付で「地頭所様江地震大地荒之旨、遂一三ケ村共古利根川縁付耕地之趣意柄申立候得者、右躰大地荒等茂有之候ハヽ、そば粉献上之砌三ケ村申合小絵図ニ相認メ、少々之われ目たり共、墨引いたし可申立置候、尤麦作仕付置場所ニも可有之候間、時節後レニ不相成様仕付者精々致不苦旨、是又被仰聞」とある。旗本池田氏から、大地荒れを調査し、小絵図を作成するよう指示が出された。少々の割れ目であっても墨引きせよとしている。また、古利根川縁の耕地が麦作を行っていたところであることから、種蒔きが時期遅れにならないようにとの注意もあった。この書状からは、江戸での被害や町域での被害など具体相を知ることはできないが、地震に遭遇した後の領主と村民のやりとりを知ることはできよう。その後、旗本の役人が十一月中旬に行われる予定の常州廻村のついでに見分に立ち寄るかどうか、調査の報告を聞いて、判断することになっていた。
安政の大地震の翌年八月二十五日夜半、辰巳(南東)の強風が吹き荒れた。これにより、関東地方は風損・水損の被害が生じた。田畑冠水だけでなく、家屋倒壊の被害も大きかった。近隣の例では、領主側からの拝借金のほか、有力村民からの見舞金なども被災の困窮者へ出された。
旗本池田氏領百間三か村の旗本役所への届書では、この日の様子を次のように記している。八月二十五日夜五ツ時(午後四時ごろ)より風雨強くなり、追々大嵐となり、同夜八ツ時(午後十時ごろ)迄に潰れた家もでて、屋敷内の山林竹木の吹き折れ、根倒しまで夥しい被害となった。中島村の田方で植えた早稲は、稲穂が大風で水中に吹き込んでしまった(「覚」岩崎家文書)。
百間三か村のうち中島村分の被害状況を表にしたのが、3-143である。
3-143 安政3年風水害での中島村家屋被害状況
(岩崎家文書)
家屋全壊である「住居潰家」は一〇軒、家屋半壊である「住居半破れ」は四軒、小屋が壊れた「木小屋(破小屋)」は二か所破損が四軒、一か所破損が七軒、ほかに住居の一部が壊れた家が二軒あり、延二七軒が被害にあった。ただし、住居も潰れ木小屋も一部壊れた、本村の忠右衛門などのような複数被害の家もあったから、何らかの被害にあった家は合計すると二二軒となる。幕末期の中島村の家数は七五軒であるので、約三割の家が大嵐の被害を受けたことになる。