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災害・不作のお救い

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こうした災害、特に作物の不作に備え、あらかじめ米や種籾を蓄えておく備荒貯蓄の制度が、江戸時代後期には整えられていた。村方の備荒貯蓄では、富裕者が供出する義倉、領主の奨励金・米や村民が持ち高に応じ供出しあう社倉などの制度があった。社倉の制度は、早いところでは享保の飢饉以降整備が進み、寛政改革において著しく整備された。囲米、囲籾などともいい、村で管理運営する郷倉で貯蓄された。
 しかし被害の大きな非常災害時には、年貢減免とともに、領主から困窮者へ施米が与えられることもあった。例えば天保四年には、百間中島村の小前困窮の者一二人に対し、十二月から翌年三月までの間二度にわたって米二〇俵が下げ渡されている。また、洪水の大規模な復旧工事などは、地元の困窮者を飢人足として雇うことで、現金を支給し救済するといった意味もあった。

3-144 夫食割合帳
(岩崎家文書)

 本節冒頭でみた近世町域の災害の内でも被害の大きかったとされる、安政六年の水害の場合では、七月中に大出水があり、百間中島村の家並み床上まで水が押し上がり、田畑とも皆水腐れになるといった状況であった。村民一同が大変難渋し困窮している旨を領主である旗本池田氏に届け出たところ、困窮人への夫食米(ふじきまい)給付となった。同年九月に夫食米は代銭で支給され、村全体へ永一〇貫四九八文三分か下げ渡された。村民への割り渡しは家単位の人数割りで行われ、一人につき永七〇文ずつ、村方三役をのぞく三五軒一五〇人へと配給された(安政六年「御屋敷様より夫食割合帳」岩崎家文書)。
 また、このときには、翌春にさしかかり夫食に差し支えがでてきたため、中島村の村役人や篤志者(「身元者」)が金子や米を出資し、困窮者へ給付を行った。このうち名主・組頭は金一両、一般の村民は金二分もしくは米を供出した(安政七年「身元者より夫食割合帳」岩崎家文書)。こうした、村役人や篤志者が金子を出し合った例は、慶応二年(一八六六)田畑凶作のときにもみられた(慶応三年「夫食割合帳」岩崎家文書)。このときには大人一人につき金三分ずつ、子供一人につき金一分二朱ずつ割り渡された。