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二つの金銭訴訟

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天保十三年(一八四二)五月のことである。和戸村の名主七左衛門は、武蔵国埼玉郡・葛飾郡の宿方一人、町方一人、村方二三人の計二五人を相手取り、売掛金・貸金の返済を求める訴訟をおこした(「公用日記」粕壁宿文書)。七左衛門は「農業之間質物并酒造渡世仕来」る者、つまり農間に質屋と造酒業を営んでいた者であった。こうした農間余業は、近世後期の村方や町方でよくみられたことで、公式な書類では「百姓」身分であるが、商売や醸造業も営んでいる者たちのことであった。

3-145 天保13年和戸村七庄衛門売掛金出入の相手方と金額
(「公用日記」春日部市粕壁宿文書)

 貸し滞った金は、金六三両二朱と銭三〇貫六二九文にのぼった。その内訳や貸し出し先は、3-145の如くであった。西久米原村、東久米原村、百間中島村、須賀村、百間(本)村、百間西原村(百間西原組)、国納村などの町域の村民たち一〇件のほかに、粕壁宿や久喜本町、白岡村など周辺の宿場・町場や農村の者たちとも取引していた。国納村亀次郎と太田吉羽村(久喜市)仙松への文政十二年(一八二九)の貸し金が古い例となるので、七左衛門はそのころより質屋渡世や酒造業を営んだのであろうか。貸出先にみえる岡泉村(白岡町)「百姓吉五郎後家ちゑ」などの記載は、借金をした当人が亡くなってしまい、妻が負債を引き継いだものだろう。また、百間中島村の「百姓庄吉事藤内」などのように、証文上の名前と実際の名前が異なる例が見られる。
 この一件の顛末は定かでないが、五月十一日付で幕府の評定所からの指示があり、解決できる点はできる限り解決して、それでも滞りがあったときは相手方からの返答書を改めて提出し、六月二十一日評定所にて対決することとなった。
 嘉永元年(一八四八)には、久米原村の組頭権右衛門が、粕壁宿百姓八右衛門の地借八左衛門、下新井村百姓勘右衛門の二人を相手取り、売掛金・前金の支払いを求める訴訟をおこした(「公用日記」粕壁宿文書)。久米原村権右衛門は、父親である太郎左衛門の代から農間穀渡世を営み、米・麦・豆類など穀類を取り扱っていた。
 去る天保十五年、常々取引のあった相手方の粕壁宿上町居住の穀物商八左衛門へ、大麦、大豆、小豆など計二八俵を附送り、販売を依頼した。代金七両一分と銭三貫六〇文のうち、内金として金三両一分と銭四〇〇文は権右衛門が受け取ったものの、その後支払われるはずの残金四両と銭二貫六六〇文は未だ受け取っておらず、度々の支払い催促にも八左衛門が応じなかったため、訴訟となった。恐らく権右衛門は久米原村やその周辺農村の穀類を買い集め、粕壁宿など町場の商人へ販売を依頼する問屋的な商売を営んでいたのだろう。