田・畑や屋敷地など、土地を担保としてお金を借りることがある。その場合、江戸時代では質地証文が作成され、数年~数十年の返済期限までに借金の元金と利息金が返済されなければ、土地はお金の貸し主のものとなる。こうした質流れによる土地名義の異動は、事実上の土地売買と同じことであった。従って、村内の階層差拡大による年貢負担農民の減少を防ぐため、本来田畑の売買を禁じてきた幕府の方針とは相反していた。しかし、現実には災害などでの生活困窮や年貢未納など、村民たちが借金せざるを得ない場合も多々あった。幕府は、元禄八年(一六九五)には一定手続きを踏んだ質入れ・質流れを公認し、延享元年(一七四四)には田畑永代売の罰則をゆるめるなど、事実上質流れによる土地の異動を黙認した。質流れした土地の持ち主は、質主の小作人へと転化する場合がある一方、年季明けないし元金返済とともに土地が戻る質地請戻しが行われることもあった。
3-146をみると、町域の村方では、元禄期より質地証文が作成され始め、享保~元文期に一つのピークを迎えている。これは、先に述べた幕府の土地異動黙認が、当地の実態とも見合っていた政策であったことを示している。そして、安永~寛政期にかけて再び質地証文は増加し始め、文化~文政期には、土地を担保としない借金証文も現れてくる。幕末に至るまで借金証文は増加し続け、万延元年~慶応四年のわずか九年の間では三〇件作成された。開港によるインフレや幕末の不安定な世情も関連していよう。
3-146 町域の質地証文・借金証文作成年代別一覧
さて、この表から分かることは、近世中期以降お金が町域の農村でも必要とされ始め、明和~安永期から寛政期以降はさらにその需要が増大し、借金証文も作成され始めたということである。このことは、農村においてもお金のやりとりによる商売、すなわち農間渡世が営まれる条件が整ったことを示しているともいえよう。それは、町域の村々が幸手・杉戸・粕壁など、人や物質流通の拠点であった町場に近在しており、かつ大消費地である江戸の地廻り(近郊)農村でもあったこととも関連していよう。そこで、農間余業の展開について、続いてみてみよう。