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農業と村民生活の変化

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村民が金銭を必要とするということは、既に近世初期からあった。それは、領主への金納年貢の支払いや、自らの生産・生活用品の購入用などであったと思われる。これに対し、質地や借金の増加にみられるような、近世中期から後期にかけての金銭の流れは、生産の変化や生活文化の向上とかかわりがあるようである。三都(江戸・京・大坂)と各地の町場の発展は、流通経済の安定化をもたらし、村方でも程度の差こそあれ消費生活が営まれるようになった。
 天保十四年、百間村の五郎兵衛、丈左衛門、須賀村の多四郎の三人は、それぞれ菜種六石・三石・三石の計一二石を粕壁宿から江戸へ送った(「公用日記」粕壁宿文書)。菜種は絞った油を灯火用に用いるものである。「御買上菜種」とあることから、幕府で用いた灯火用の菜種であろう。菜種は当時換金性の高い作物であり、従来からある年貢と自家消費用の穀類・蔬菜類にかわって、換金作物が畑に仕付けられるようになった。『武蔵国郡村誌』によれば、明治初期百間地区の村々では、米・麦などの穀類のほかに、綿作や製茶が行われていたことがわかる。木綿や茶は製糸や製茶など家での余業が行いやすい畑作物であった。
 こうした農作物の多様化とともに、いっそ農業を辞めて商売を始める者たちも出てきた。弘化二年(一八四五)百間村下組の馬之助は、病体であって農業に励めないという理由から、粕壁宿へ引き移って商売を始めたいと村役人へ申し出た(「粕壁宿方罷出商ひいたし度ニ付人別送願」新井家文書)。百間下組の一軒の百姓としての家の跡式(相続)、年貢諸役、村役などは、親類の清蔵が引き継ぐこととなった。この場合、病体で農業ができないというのは、村を離れて商売を始めるための方便であろう。また、村側にとっては、商売の開業が問題とされたのではなく、家の相続者を決めて百姓潰家を出さない点が大切だったことは、注意しておく必要がある。
 余談であるが、この当時の家で家財・日用品としてどのようなものを持っていたのか、嘉永三年の資料からみてみよう(「盗品目録」岩崎家文書)。この年の二月九日昼二時過ぎ、百間中島村の留守宅へ盗人が押し入った。そのときの盗品と遺留品を一覧にしたのが、3-149である。

3-149 嘉永3年中島村農民宅からの盗品・遺留品一覧 (岩崎家文書)

 金二朱、銭凡二、三〇〇文という盗まれた金額から考えて、被害にあった家はどちらかといえば安定した経済基盤をもつ一般的な民家であったと思われる。盗品は衣類と金品がほとんどであり、衣類の中には木綿のものにまじって絹帯なども含まれている。また、証文などの署名捺印で悪用しようと考えたのであろうか、盗人は印形(印鑑)を持ち去っている。遺留品では、衣類や手鏡のほかに、伊勢暦と思われる一枚摺の暦がみえ、この家の家財の一端がうかがえよう。ここにあげられた品々の多くは恐らく購入されたものと考えられ、当時の人々の消費生活を想像することができる。また、安政六年(一八五九)四月には、百間中島村百姓宅から売上金五貫文が銭箱ごと盗まれ、箱だけが畑から発見されるという事件もおきた(「銭盗難ニ付届書」岩崎家文書)。幕末には百姓身分であっても余業を営み、その売り上げを銭箱で管理していたような家もあった。