3-147でみた文政十三年の諸商人のうち、百間村の権八は文政九、十年二か年平均で金三三四両余の額を商っていた。かなり多額の金銭が村方でも取引されていたのである。
次に実際の商売の例を村役や御用荷物を附け送るため利用された馬の売買についてみてみよう。弘化四年十一月、蓮谷村の伝之介は、金八両二分で三歳の麻毛馬一匹を同村の長八、亀太郎から購入し、さらに金三両二分で当年生まれの麻毛馬を購入した。その馬は、上総国望陀郡川原井村(千葉県袖ヶ浦市)を長八と伝之介両名が商売で訪れたときに買い取ったものであった(「馬二疋組合ニ付取為替疑定之事」戸田家文書)。村内での取引とともに、かなり遠方まで商いに出かけていたことがわかる。
さまざまな渡世・商いがある一方で、商売に失敗する者もいた。文政三年、百間中島村藤兵衛は、紺屋経営に失敗し、「今般私儀百姓渡世之間ニ紺屋渡世仕候処、去冬仕入金ニ差支候ニ付、同村治郎右衛門殿へ居屋敷野田畑共ニ不残売払申候」といった有様であった(「入置申一札之事」岩崎家文書)。浮き沈みの差が大きい商売が農村へと広まると、百姓経営の安定・年貢納入の安定を基調としていた幕府の諸政策に反することになる。藤兵衛の場合、無届けで田畑屋敷を売り払い、百姓潰家を一軒出したことが問題となり、村役人あてに年内には再び百姓相続するという誓約書が提出された。このことからも、現実のさまざまな動きは別として、近世後期でも潰れ家を出さず百姓家を相続していくことが、農村の建前上の論理であったことがわかる。これは、幕府農政の基調に沿ったものであり、農村で諸商売を営むものはあくまで「農間」渡世であり、身分上百姓身分なのであった。