3-150 明和9年年貢勘定ニ付儀定証文之事
(戸田家文書)
双方で取り交わされた議定書では、①年貢の勘定は村役人立ち会いでこれまで行ってきたが、年貢を村民に割り振るときに不公平があったため村民立ち会いの上で勘定し直すこと、②年貢勘定に用いる帳面は古いものではなく今年のものを使い、潰れ地などを正確に記した帳面とよく照合しながら、間違いなく個々の百姓へ割り振ること、③治兵衛は宗門帳へ捺印を延引していたが、捺印すること、④村全体の出費(村入用)の帳面三年分は、双方の対立のため延引になっていたが、このたびよく調査し百姓側で納得できる出費であれば支出を認め、納得できない出費は削除すること、⑤村入用の勘定は組頭方にて百姓代が立ち会って割り出し、惣百姓中の当番の者が名主宅へ出向き持参すること、⑥江戸の出張費用は六〇〇文で往来すること、できるだけ組頭が出張し、名主はよんどころない事情の時だけ出張すること、⑦年貢勘定は割付状など関係書類とよく照合すること、⑧名主が江戸へ出張するときには送り馬を付けないことが原則であるが、御老人であるので旗本への年始の御礼並びに年貢皆済(かいさい)の時節は村人から歩行一人と馬を差し出すこと、⑨友右衛門の組頭役のこと、の九か条が取り極められた。
各条目をみると、惣百姓の宗門人別帳捺印拒否は、村民からの年貢取り立て(勘定)のときの村役人の不公平・不正疑惑、現在の自治会費・公費的な村の諸費用(村入用)の支出に対する疑惑、とりわけ江戸出張(出府)の疑惑が、大きな背景としてあったと推測される。年貢や村の活動をめぐる村役人の金銭疑惑が、惣百姓側にあったと思われる。このように、小前百姓(一般村民)が村役人の年貢算用・勘定、村入用支出へ疑惑の眼を向け、惣百姓やその代表である百姓惣代による立会勘定(監査)を求め、村役人側と対立することを、村方騒動と呼んでいる。実際に不正があった場合もあるし、単なる双方の行き違いやすれ違いがあったり、ほかの村内の事件が尾を引いていたり、さまざまな要因から端を発し、村方騒動は発生した。ときには世襲の名主や村役人を糾弾(きゅうだん)し、年番名主制に移行するなど村の諸制度の変化をもたらすこともあった。いずれにせよ、村方騒動が起こる背景には、第二章でみた小百姓たちの経済的な成長にともなう、村の政治的な事柄へ対する関心の高まりがあった。また、前節でみた貨幣経済の農村への浸透による新興の家の勃興・成長なども背景としてあげられよう。
こうした村方騒動は、町域の各村でもみられた。例えば、寛政十二年(一八〇〇)三月には、百間中島村のうち本村・中須・若宮の三組の惣百姓が、組頭が取り扱った旗本池田氏へ納めた先納金(近世後期、旗本の財政が窮乏したため、村方から年貢を前納させたお金)の取立帳面と上納請取手形、皆済目録の披見要求を行った。取立帳面は個々の村民に割り振った額の取り立てを記した帳面であり、上納請取手形は先納金の上納手続きの過程で旗本池田氏の役所から下付された書類である。恐らく取立額の公平性、上納額と取立総額が照合しているか、といった点が問題となったのであろう。この一件では、百間中村の名主が仲裁に入り、七月に四人の組頭と惣百姓五一人が突合せ勘定を行うことで合意した。なお、旗本池田氏領の百間中島村では、名主幾五郎は役名ばかり守るだけの存在で、年貢取立・村用など事実上の村政業務は四人の組頭が行っていた。文化三年(一八〇六)には名主幾五郎と元組頭九左衛門との間で金銭関係の争論がおこっていることから、村財政や年貢金取扱、村政について名主と組頭の間で主導権争いがあったのかも知れない(「先納金小前割合取立帳面等披見要求ニ付議諚一札之事」、「先納金突合せ勘定ニ付入置申一札之事」、「名主と元組頭出入一件ニ付差上申済口証文之事」岩崎家文書)。