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若者仲間の活動

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姫宮神社にある正徳五年(一七一五)四月の力石三三貫目は、村の若衆七人が奉納したものであった。また、百間六丁目の路傍には、明和五年川島の若者中が奉納した力石がある。力石とは、力比べで持ち上げた石で、年月日、奉納者、重さなどが刻まれ、神社などに奉納された。また、力石の興業を行う旅の一座が奉納することもあった。

3-151 力石 (姫宮神社所蔵)

 さて、二つの力石の奉納者、「若衆」や「若者中」といった者たちは、村の若者仲間に属していた者たちだったと思われる。若者仲間は、若者組・若衆組・若者連中などともいった。一五~一七才ごろに加入し、親の隠居や死去によって家を継ぐまで所属した。原則的に家の当主ではないが、青年・壮年であり、家や村での一番の働き手であった。村で行われる道や水路の普請、消防、田畑の耕作、共同作業、祭礼などのときには、主体となって活躍した者たちだった。百間中島村では、家主を勤める者は二七、八才まで、親が存命の者でも三五、六才までが若者仲間の年齢規定であった(「村方困窮ニ付取極申議定之事」岩崎家文書)。若者仲間は村寄合とは別に寄合を持ち、若者宿・若衆宿といわれる寝宿で一定期間共同生活を行ったりして相互の親睦を図った。
 近世後期にはいると、いきおい元気のよい若者仲間たちは、消費社会の広まりやさまざまな誘惑などによって、村の秩序を乱す存在として注目されるようになった。特に祭礼や町場で羽目を外し、打擲(うちこわし)や乱暴な振る舞いも間々あり、流行を追い乱費に走る者たちも出てくるようになった。百間中島村では、文政十二年(一八二九)、百姓彦八の悴(せがれ)新左衛門が、村から出奔する事件が起きた(「身持不宜悴出奔ニ付帳外願書」岩崎家文書)。親や親類たちが心配したのは、この新左衛門、身持ちが甚だ悪く親類・組合・村役人らが度々意見しても行状がおさまらないような者であって、村を出たら何をしでかすか分からない。何か悪事を働いた場合は、親はもとより親類・縁者・組合にまで類が及ぶので、帳外れとして縁を切りたい、というのである。新左衛門の年令は二二才。一般に近世のこの時期前後から「悴」たちの不祥事を詫びる文書が増えてくるのだが、まさにこうした青年たちが若者仲間の主体であった。
 こうなると村の秩序・治安や風紀の維持を重視する幕府からも問題視され、のちにも述べる文政改革では特に若者仲間の取締が行われることになった。そのときの組合村々請書によると(岩崎家文書)、近年在々若者仲間と唱えて大勢組み合い、①神事祭礼に事寄せ人寄せがましいことを催し金銀や耕作の暇を費やし、②悪事ばかり企てて中には村役人の注意や意見に背く者もいる、不届き、甚だ宜しがらざることである、という幕府治安担当者(関東取締出役)の厳しい注意があったことがわかる。その理由は①祭礼などで芝居や見世物、相撲など興業を催し金銀を浪費し、本来休むべき農業の暇をつぶしていること、②悪事を企み、村の秩序に反していること、であった。村方騒動では村の政治的な秩序が動揺したが、若者仲間の動向は村の社会的な秩序を脅かすものであり、ましてそれが派手な消費と結びついているとなれば、幕府としても捨て置けなかったのである。
 幕府の取締令にもかかわらず、翌十三年には近隣の野牛村(白岡町)で、今夏中寄合酒食の上争論打擲した不始末一件が、関東取締出役の耳に入る有様であった(「若者仲間取締ニ付一札之事」岩崎家文書)。幕府の取締があったからといって、青年たちのエネルギーがなくなるわけではない。
 弘化二年(一八四五)十月におきた百間中島村での事件を一つ挙げておこう(「悴共手踊一件ニ付嘆願書」岩崎家文書)。十月二十日夜、中島村百姓甚兵衛方へ近村の者どもが押し寄せ、当時流行の手拍子踊(手踊)(てびょうしおどり(ておどり))を催していたところ、関東取締出役の耳に入り配下役人による手入れとなった。現場での検挙者は、百間村百姓文十郎悴茂吉ほか二人だったが、若者仲間の名前から参加者が割り出され、一九人がさらに検挙された。捕まったのはいずれも「悴」であり、手踊りを主催したのは若者仲間だったと推測できる。彼らは農休などのとき村々の庵や各自宅へ集まり、手踊りなどの真似事をしていた。このように、取締強化後も若者仲間の活発な活動は続いていた。彼らは村役人や親・親類たちにとっても、幕府や領主にとっても厄介な存在であった。なお、この一件で親たちが提出した嘆願文には、「何れも年若の者で何の気なしによくない真似事をしただけだ」という文言がみえ、親たちの苦悩する姿が想像できる。