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乱れる風紀と治安

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天保四年(一八三三)、八丁目村(春日部市)の原野中で博奕(とばく)を行っていた現場に、手入れが入った。名前・住所の不明な連中の手合わせに加わった者たちの中に、百間中島村百姓安右衛門がいた。遊び仲間だろうか、一緒に捕まったのは、下総国下柳村(庄和町)三郎次と武蔵国末田村(岩槻市)菊蔵の二人だった。(「差上申済口証文之事」岩崎家文書)
 博奕打ちは江戸時代御法度であったが、それでも近世中期ごろから農村でもはやり始め、享保期には三笠付と博奕の禁令が出されていた(「三笠付並博奕御法度書判形帳」戸田家文書)。近世後期には宿場や農村でも博奕宿が催されることがあった。

3-152 三笠付並博奕御法度書判形帳(戸田家文書)

 博奕を催すのはいわゆる博奕打ちたちであり、近世後期に各地を徘徊していた無宿人たちが客となった。先の八丁目村での博奕を催した者のうち、名前・住所不明の者たちは多くが無宿人たちだったのではなかろうか。定職を持たない無宿人たちは、ゆすり、たかりや博奕で、時には人足として日銭を稼いでいた。中には強盗や盗人を働く者もいた。文政八年百間西原村(百間西原組)の無宿安五郎は、同村弥平次宅内と軒下にかけてあった衣類・反物・夜着などを盗み取り、素知らぬ顔で質入れし金鉄を受け取っていた。安五郎は、粕壁宿内で関東取締出役配下の者に取り押さえられた。(「宿用留」粕壁宿文書)町域の村々にも怪しい者たちが徘徊していたのである。
 時代が下るにつれ、さまざまな徘徊者が村々を訪れ、金品をねだり、休泊をせがむようになった。天保八年、この年の年番であった百間西原下組で作成された「三組掛り諸浪人其外合力差出控」(新井家文書)という帳簿には、この年同組へやってきた怪しげな風体の者たちへの出費(合力銭)が記されている。面白いのは、幕府御用であるはずの鷹場役人や鳥見、取締出役などへの出費なども同帳に記されていることである。出費という意味では、西原組の人たちにとっては徘徊者も御用も同じだったのだろうか。
 天保八年で最も多かったのは浪士(浪人)で、六七人(家族も含む)が当地にやってきて金銭や一宿をねだっていた。例えば、二月十三日には水戸浪士を名乗る山本数馬と女房・子供三人が来村・一泊し、六月十六日には尾張藩浪士を名乗る岩崎才三郎なる人物が昼飯をねだっていた。十月十四日には、川越浪士小林幸右衛門へ一二文の合力銭を出した。浪士に次いで多いのは鷹や普請、取締関係の御用役人たちに対する人・馬や宿の提供、出銭などで、二七件あった。座頭やゴゼの来村も多く二六人にのぼり、そのほか旅僧や寺社の勧化、通り者や鉱山職人など村に訪れたさまざまな人たちに合力した。中には江戸火消しや臥煙(がえん)(火消し人足)を名乗る者や、行き倒れ人もあった。こうした人々が、実際に浪士であったり、火消しであったのかは疑わしく、その日暮らしの無宿人に近い者たちも多かったと思われる。