明和五年のこと、三月九日夜に須賀村新田の百姓伊兵衛が博奕宿をつとめたことが発覚した。このとき宿を提供した伊兵衛は銭一貫文、博奕を見届けながら報告しなかった両隣の家には五〇〇文ずつの過料銭が課せられた。須賀村新田では、村の取り決めで博奕を見届け次第名主・組頭へ通報することとなっていた(「入置申一札之事」戸田家文書)。
文化八年八月、百間中島村の小前百姓三〇人は、近年不作困窮が続き村方一同難儀しているので、主に村の風紀や生活について次のような取り決めをした(「村方困窮ニ付取極申議定之事」岩崎家文書)。
3-153 村方困窮ニ付取極申議定之事 (岩崎家文書)
①休日は、折々の節句は別として、毎月一日と十五日を定休日とする。これまでの五・十日の休みは中止し農業の合間を見合わせて休日とする。②酒盛りの日は、三月は一日限り。御斎は家主男・女、若者どもは六月・十月二度限り。ただし老人は心任せにしてよい。③居酒屋でつき合いとして三人、五人などで小宴を催したり、飲み合ったりしないこと。④若者仲間は、家主の場合は二七、八才まで、親が存命の場合は三五、六才までを限りのつき合いとすること。⑤博奕諸勝負を行わないように、新五人組でよく吟味する。万一博奕宿などを催す者がいたならば、その者はもとより、組合一同も御屋敷様(領主・旗本池田氏)へ注進する。
取り決めに合わせて新五人組が定められ、村内の取り締まりを強化することとなった。
3-154 御改革再議定連印帳 (遠藤家文書)