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幕政の改革

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一方江戸幕府も博奕諸勝負や村方の華美、特に若者仲間の活動、そして各地を徘徊する無宿人や浪人の横行など、風紀と治安の悪化に対して危機感を募らせた。天明の飢饉後の天明六年(一七八六)には、粕壁宿で貧民の騒動が発生しそうになり、この翌年には江戸で著名な打ち壊しが発生した。また、天保の飢饉後の天保四年には、幸手宿で困窮民たちによる打ち壊しがおこり、家数二〇軒、富裕の商家二四軒の被害があったという。幕府の側からみれば、それまでの村制度の枠におさまらない者たちの出現や、農家経営に影響を及ぼす風紀の悪化、潰家の増加、飢饉(ききん)後の貧民の騒動・打ち壊しなどは、農村の荒廃と映った。いわゆる江戸幕府の三大改革のうち、寛政の改革では儒教(朱子学)的な論理を強調し、出版統制などを通じて風紀の建て直しをはかっているし、また、寛政の旧里帰農奨励令や天保改革での人返し令は、それぞれ天明の飢饉、天保の飢饉を直接の契機としつつも、江戸へ流入した遊民層の帰農を図り、関東農村の荒廃を是正(ぜせい)しようという意図から生まれた政策だった。寛政改革での農村の備荒貯蓄奨励策も同様の意図を持つ。

3-155 町域村々所属改革組合村・軒数
(「武蔵国改革組合村々石高・家数取調書」より作成)

 そうした幕府の改革の中で、直接関東地方の農村に大きな影響を及ぼしたのが、文化二年の関東取締出役の設置であり、文政十~十二年に行われた文政改革であった。
 関東取締出役は、町域の村々のように幕府領(天領)、大名領、旗本領などが入り組んでいた関東地方の村々に対し、関東代官配下の手付・手代八人を勘定奉行直属として任命し、設置されたものだった。これは、享和元年(一八〇一)試験的に江戸町奉行配下役人を関八州に廻村させて、治安強化を図ったことを元にして制度化したものであった。領主に関わりなく取締出役に強い警察権を持たせることで、無宿・悪党や村民の徒党などの取締を強化し、治安の悪化に対応しようとしたのである。俗にいう八州廻りである。取締出役は関八州を常々廻村し、既にみてきたように治安担当者として博奕摘発などで本領を発揮した。
 つづく文政改革は、「文政改革議定」とも呼ばれる、幕府による「御取締筋改革」触書の請書を村々が提出する形で実施された。この触書は、長文の前文に続く四か条の教諭書と四〇か条の細則から成り立つものであり、それまで幕府が個々に触れ出していた治安や徒党の禁止、風俗取締などの触書を集大成したものであった。特に農間余業を抑制する意図が目立ち、村制度と百姓家の維持を目指したものであった。第二節で述べた文政十~十二年にかけての農間余業調査は、この改革の際行われたものであった。このとき、特に村民の風紀や、無宿・悪党についての情勢や情報を知るのに便利であった居酒屋、湯屋、髪結い、大小拵研屋など「商売向き四品」と、盗品が質入れされる質屋について、別帳仕立で調べられた。
 さて、この議定では、細則二条目の組合村の設置を命じた項目が、最も重要であった。このとき設定された改革組合村は、原則的に領主が誰であろうと関係なく最寄りの四五か村を目安に組織された。さらに、三~六か村ごとに小組合を編成し、小惣代がこれを代表した。一方、町場など村高が大きく交通の要衝の町・村を寄場村として設定し、関連事務を統括させた。寄場村の村役人のことを寄場役人という。町域の村方は、幕末期には国納村と和戸村が埼玉郡・葛飾郡幸手宿外三四か村組合、そのほかの村々は埼玉郡・葛飾郡杉戸宿外四一か村組合に属していた。
 この組合村の費用は村々の新たな負担となった。特に天保期に囚人用の囲檻を寄場村に設置し囚人番をつけたりするようになると、その費用や番人の負担などが加わり、負担は増加する傾向となった。