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コラム 中山道桶川宿の廻状 皇女和宮の下向と宮代の村々

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 文久元年(一八六一)のこと、中山道桶川宿(桶川市)の問屋由三郎・年寄信蔵二人の差し出した手紙が、百間村・蓮谷村・須賀村など埼玉郡八か村、葛飾郡二か村宛てに到来した。手紙の日付は十一月九日、書面は次のようなものであった。
 「和宮様御下向の節は宿継ぎ人馬が多く必要なので、宛先の村々は中山道桶川宿へ当分助郷を申し付ける。桶川宿の問屋から触れ次第に、遅参や滞り無く人馬を差し出し、助郷を勤めなさい。もっとも、今は助郷を休役している村でも、今回の御用限り助郷を勤めなさい。
  酉(文久元年)十一月八日 隠岐(酒井忠行・道中奉行)
 右の通り道中奉行の御印状が到来したので、写しを回覧します。この廻状を披見次第、各村々の三役は印鑑持参の上、昼夜に限らず急いで当桶川宿へ来て下さい。(以下略)」
 「和宮下向」とは、当時の孝明天皇の妹和宮親子内親王が、一四代将軍徳川家茂と結婚するため、京都から江戸へ下向することである。尊攘(そんじょう)運動が吹き荒れる中、万延元年(一八六〇)大老井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で水戸浪士に暗殺された。こうした幕末の不安定な政情の中、幕閣久世広周(くぜひろちか)・安藤信正(あんどうのぶまさ)と公卿岩倉具視(くぎょういわくらともみ)によって、天皇家と将軍家の婚姻による公武合体の運動が進められ、和宮降嫁となった。当初は東海道を通行することとなっていたが、中山道へと変更になり、幕府の威信をかけた大動員がかけられた。
 十月二十日に京都を出た和宮一行は、この日ちょうど碓氷峠を降りたところであった。熊谷宿を出て桶川宿へ一泊したのは、四日後の十一月十三日のこと。桶川宿の役人が助郷村々の村役人たちへ、「昼夜を問わず来宿するように」と急き立てているのも理解できる。和宮付の千数百人と、警護の武家一行の通行・宿泊に必要な人馬負担は、助郷によって賄われた。中山道筋の助郷が、町域の百間・蓮谷・須賀などの村々へ臨時に課せられたのは、こうしたわけであった。

3-157 和宮下向ニ付桶川宿加助郷廻状
(市川家文書)