伊勢派の佐久間柳居の孫弟子であり、古川太蕪の弟子である、江戸に居住していた鈴木秋瓜(生年不詳~寛政十一年)が「多少庵」を開いたのは、延享年間のことと推定される。その根拠は、寛政六年(一七九四)に刊行された「甲寅歳旦」の序文(編者である無為尚入すなわち鈴木秋瓜の自序)の中に「多少庵ハ四十余年相続の号にして(後略)」という文言があることである。多少庵は、江戸六庵のひとつといわれ、由緒ある俳諧結社のひとつであるが、宮代町との縁が深くなってくるのは二代目の庵主である日下部波静(くさかべはじょう)(元文五年~天保三年(一八三二))のころからである。波静自身は、江戸に住んでいたが、百間村には何回も訪れたという記録が残っている。しかし、多少庵と宮代町との間に密接な関係が生じるのは百間寺村(百間東村)の出身で三代目の庵主を島村鬼吉により追贈されたと考えられる中野南枝(なかのなんし)(生年不詳~文政五年(一八二二))が活躍したころからである。南枝は、多少庵の開祖秋瓜に弟子入りして、兄弟弟子の波静よりも早く死んでいるので、多少庵の庵主としての活動を実際に行ったとは考えられず、四代目庵主の島村鬼吉(しまむらききつ)(天明四年(一七八四)~安政二年(一八五五))が同郷の先輩に配慮して、十代目市川団十郎の例ではないが追贈したと考えられる。文政三年に造立された南枝の句碑が五社神社にあり、このときは連溪庵(れんけいあん)を名乗っており、多少庵とは名乗っていないことにも留意する必要がある。