ビューア該当ページ

多少庵と島村鬼吉

445 ~ 446 / 660ページ
宮代町は現在でも俳句の盛んな土地柄で知られているが、その直接のきっかけを作ったのが四代目庵主で百間中村の名主を勤めた島村鬼吉である。鬼吉は、それまで江戸に本拠が置かれていた多少庵を天保八年に百間村に移した最大の功労者である。当然のことながら、移動に当たっては江戸の俳人たちの間に根強い反対論もあったが、最後にものを言ったのは鬼吉の実力と経済力であったという。鬼吉は波静の弟子であり、初めは雪操園徐松と称していたが、南枝の死後は連溪庵を継ぎ、二代庵主波静の死後に四代目の多少庵庵主に就いている。多少庵は波静と鬼吉の時代に最盛期を迎えており、近在の村の俳人はもとより仙台・京都・金沢などの俳人たちとの交流があったことが、そのころ刊行された句集の顔ぶれを見るとわかる。鬼吉は、芭蕉を尊敬していて、江戸六庵の六草庵仙瓢・蘿月庵溪雨などとかわるがわる深川において芭蕉忌を営んでいる。また、俳聖芭蕉の百五十回忌を追悼した句集『深川よとみ集』を弘化三年(一八四六)に出版しており、作風も奇をてらうというのではなく、あくまでも正統派の俳句を作ろうとしていたようである。

3-159 旦暮帳にみられる島村鬼吉の句
(新井家文書)

高精細画像で見る

 鬼吉が多少庵の活動の本拠を百間村に移して活躍していたころ(江戸時代後期)には、毛呂山・児玉往還沿いに春秋庵、中山道沿いに東武獅子門、日光道中に沿って多少庵と葛飾蕉門というように有力な俳諧結社が割拠していたのが目立った特徴である。なかでも春秋庵を開いた加舎白雄(かやしらお)は伊勢派の佐久間柳居の弟子であり、多少庵の創始者である鈴木秋瓜とは兄弟弟子の間柄であった。このことからも多少庵と春秋庵とは密接な関係があったことが知れよう。現代では属している会派や流派が違えば、句会に同席したり互いの会誌に投句し合ったりするということはしないが、江戸時代はそのあたりはあいまいであって、一人の俳人が複数の結社に所属していても非難されることはなかった。山崎の折原家に伝えられた文化二年(一八〇五)書写の句集は葛飾蕉門の有力俳人であった其日庵白芹にゆかりの深いものであり、葛飾蕉門関係の俳人の名前が多く見られるが、書写人は多少庵の俳人であった。ちなみに葛飾蕉門の県内での拠点は現在の春日部市赤沼から松伏にかけてのあたりであった。また、東武獅子門も、もともとは各務支考の一門に属する俳諧結社であり、岩田凉菟と支考との関係を考慮すれば、全く無縁の俳諧結社であるということはできない。江戸時代の俳諧結社は現在よりもずっとお互いに影響を受け合っていたと考えられる。