3-159 旦暮帳にみられる島村鬼吉の句
(新井家文書)
鬼吉が多少庵の活動の本拠を百間村に移して活躍していたころ(江戸時代後期)には、毛呂山・児玉往還沿いに春秋庵、中山道沿いに東武獅子門、日光道中に沿って多少庵と葛飾蕉門というように有力な俳諧結社が割拠していたのが目立った特徴である。なかでも春秋庵を開いた加舎白雄(かやしらお)は伊勢派の佐久間柳居の弟子であり、多少庵の創始者である鈴木秋瓜とは兄弟弟子の間柄であった。このことからも多少庵と春秋庵とは密接な関係があったことが知れよう。現代では属している会派や流派が違えば、句会に同席したり互いの会誌に投句し合ったりするということはしないが、江戸時代はそのあたりはあいまいであって、一人の俳人が複数の結社に所属していても非難されることはなかった。山崎の折原家に伝えられた文化二年(一八〇五)書写の句集は葛飾蕉門の有力俳人であった其日庵白芹にゆかりの深いものであり、葛飾蕉門関係の俳人の名前が多く見られるが、書写人は多少庵の俳人であった。ちなみに葛飾蕉門の県内での拠点は現在の春日部市赤沼から松伏にかけてのあたりであった。また、東武獅子門も、もともとは各務支考の一門に属する俳諧結社であり、岩田凉菟と支考との関係を考慮すれば、全く無縁の俳諧結社であるということはできない。江戸時代の俳諧結社は現在よりもずっとお互いに影響を受け合っていたと考えられる。