ところで、鬼吉が天保八年に百間村に多少庵の本拠を移してからは、近郊の村に勢力を拡大して行き、名主をはじめとして各村の有力農民層が仲間に加わった。「南枝の十二支」と俗称で呼ばれた人々が鬼吉を補助して多少庵は隆盛に向かうが、その十二支とは次の俳人たちを指すことが多い。ただし、必ずしも一二人だけというわけではなかった。すなわち、『多少庵俳檀志』によれば、島村梅年(しまむらばいねん)・齋藤紫山・坂巻徐柳・秋葉楽之・佐藤松溪・竹内松圃・戸賀崎琴松・岩崎奇石(とがさききんしょう・いわさききせき)・富澤永淳・大高壽松・池田花松・鴨田北海・小松青圃・松本草補・高木岑松・川島鳳旭・島村竹夫・小久保巴曲のことである。そのほかにも折原柳雨・萩原常盤・柳二・柳雫、海老原里行・古行父子、鈴木栗園(すずきりつえん)、神田雨蘭、大島有隣(おおしまうりん)、井草梅雨などがいる。いずれも、通常は農業に従事しており、農閑期に俳句を専ら嗜むという生活のスタイルであった。現代のように俳句を作ること自体を生業としているような人はいなかったので、あくまでも俳句は趣味の範疇を越えることはなかった。したがって、俳諧結社としての多少庵が刊行した句集も「○○歳旦」というタイトルのものが圧倒的に多いのも無理は無い。また、神田雨蘭が書写した『古今俳諧明題集』が「冬の部」しか無いのも、作句できる季節が秋の彼岸過ぎから春の彼岸までしかないとすれば、ほかの季節を書写する必要性を感じなかったためであろう。この「○○歳旦」という句集が多いのは、ほかの俳諧結社にも言えることで、職業俳人が登場してくる以前においては、大晦日から正月にかけてが俳句を作る上で格好の話題を提供してくれる時期であったと言える。奈良県の天理大学附属天理図書館の綿屋文庫には多少庵関係の「○○歳旦」だけでも、初代庵主秋瓜の時代のものを中心に二〇冊以上収蔵されていて、江戸時代の俳諧結社の活動の一端ひいては上流農民階層の知的文化の一面を知る好材料を提供してくれている。「○○歳旦」を除く句集としては、どの俳諧結社にも共通して見られるのが、故人の追善供養のための句集で、さまざまなしゃれたタイトルが付けられていることが多い。七代庵主野口雪蓑(のぐちせっそう)が秋瓜百回忌と歴代庵主の追善供養を記念して編集した『玉兎集(ぎょくとしゅう)』や前述した四代庵主鬼吉の『深川よとみ集』や開祖秋瓜の『ふた木の春』などはその例である。
『多少庵俳檀志』全篇を読む
『玉兎集』全篇を読む
『深川よとみ集』全篇を読む