日本三大名作浄瑠璃のひとつに『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』(以下『菅原』という。)がある。『菅原』は、「せまじきものは宮仕へ」という名文句で知られており、その四段目は端場の寺入りと切場の寺子屋から成り立っている。この浄瑠璃は平安時代の菅原道真と藤原時平との確執に関わる話題を扱っているが、平安時代に寺子屋は存在していなかったので、話としては虚構の世界ということになる。しかし、端場の寺入りは、江戸時代の寺子屋の様子を活き活きと写し出しているように思われる。竹田出雲・三好松洛・並木千柳の三名による合作と伝えられているが、三人とも上方に生まれ育っているので、『菅原』に登場してくる寺子屋は上方のそれを模しているが、江戸付近でも実情は大差なかったものと思われる。
現行の舞台では、八人ぐらいの寺子の面倒を一人の師匠が見るようになっているが、近代学校制度における義務教育とは異なり、農村を中心とした在地の子供が全員寺子屋に通っていたとは考えられないので、一人の師匠に弟子(寺子)が三〇人程度というのが平均的な姿であったと思われる。また、寺子屋という文字から見てもわかるように、寺の一室が教場として使用されることが多かったようである。また、師匠も在地では専ら僧侶で、城下町や町場では僧、神官、浪人などがつとめていた。寺が一般庶民の間に身近な存在になってくるのは、江戸幕府が檀家制度を敷いて末端行政機構のひとつとして位置付けられてからであり、寺子屋の成立も江戸時代になってから、それも中期ごろとされている。
寺子は、農民や町人の中でも授業料を払うことのできる裕福な階層の子供で、武士の子供は藩校に通うことになっていた。ちなみに、県内には、忍藩(おしはん)の進修館・培根堂(ばいこんどう)、川越藩の博喩堂(はくゆどう)、岩槻藩の遷喬館(せんきょうかん)などの藩校が設置されていたが、いずれも江戸時代後期に設けられたものであった。『菅原』の寺子屋の段には「弟子といへばわが子も同然」という台詞があり、親の代わりとして師匠は勉強のほかにもいわゆる生活上の躾(しつけ)も教えていたことがわかる。