ビューア該当ページ

往来物と四書五経

449 ~ 451 / 660ページ
寺子は別名を筆子(ふでこ)とも呼ばれるが、この名称はいみじくも寺子屋での教授内容を反映しているものである。俗に「読み・書き・そろばん」と言われるが、寺子屋での学習内容の中心は読みと書きであり、特に入門したての子どもは、多くの場合書くことに力点が置かれていた。「習字」という言葉は、現在では筆記具で字を書くということを意味するが、本来は手本となる字を真似て何度もくり返して書くということによって自分のものにするという意味であった。
 習字の教材として寺子屋で用いられたものが手紙文を中心として編纂された『往来物(おうらいもの)』と呼ばれる一連の書物であった。「○○往来」と名のつく典籍類は無数に出版されており、道仏の岩崎家文書中にも「百姓往来」「消息往来」などという名称の本があることからもその一端がうかがえる。
 寺子(筆子)は九才ごろから寺子屋に通い始めるようになるが、はじめはやさしい往来物を用いた習字が日課であった。在籍期間の平均は四年間ぐらいであるが、次第に教材もむずかしくなって、習字一辺倒から読方も学ぶようになる。「古状揃(こじょうぞろえ)」(古今の名作といわれる手紙文を集めたもの)、「実語教・童子教(じつごきょう・どうじきょう)」(子供が守るべき道徳を示したもの)、「千字文(せんじもん)」(中国で作られた書の見本)、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」(武士が制定した最初の法典)などが教材として用いられるようになった。暗書・暗読(教科書を見ずに書いたり読んだりすること)が月末・年末の浚(さらい)(試験のこと)に課されたこともあり、丸暗記を主とする素読(そどく)中心の教え方であった。ちなみに現在、復習することを「おさらいをする」というのは、寺子屋で使用されていた言葉の名残である。
 これらの教材の本文は、ほとんど例外なく大きな文字で書かれていて、習字の際に手本となることを意図して作られているということがわかる。木版のいわゆる整板本も使われたが、師匠や親が筆で書いて与えた場合も多かった。岩崎家文書中にも写本の教科書類が多く見られるのは、費用のかかる版本の購入よりも安上がりな筆写を優先させたためかもしれない。
 寺子屋における最終段階の学習は、漢籍の素読であった。この段階で用いられたのが「四書五経(ししょごきょう)」と呼ばれるものであった。いずれも古代中国で作られた典籍類で、「大学(だいがく)」「中庸(ちゅうよう)」「孟子(もうし)」「論語(ろんご)」が四書、「易経(えききょう)」「書経(しょきょう)」「詩経(しきょう)」「礼記(らいき)」「春秋(しゅんじゅう)」が五経といわれた。そのほかに「孝経(こうきょう)」も人気があり読まれていた。これらの本は人が生きていく上での基本となる書物とされていて、江戸時代の隠れたベストセラーであった。郷土の偉人渋沢栄一のように終生「論語」を信奉した人もいた。旧家といわれる家にはたいてい一揃は遺されており、農村部でも必須教材であったことがわかる。岩崎家や新井家の蔵書中にも、当然のことながら見いだすことができる。四書や五経は組みで刊行されることが通例で、「論語」の巻末にのみ出版事項や刊年を示す刊記があるので、単独の書名ではなかなか刊年を推定できない厄介物でもある。

3-160 往来物と論語・孟子