寺子屋を修了すると、余裕のある子どもは漢学塾・国学塾といった私塾に通って更に学んだ。宮代町域での私塾の活動は算学塾を含めて確認できないが、塾における教材は四書五経や「古文真宝」「十八史略」などの漢籍が中心であった。ところで、埼玉県内の算額の分布からは、江戸時代中期以降の和算家たちの活躍が推定できるが南埼玉郡内では春日部市に三点あるだけで、そのほかの市町村では確認されていない。しかし、岩崎家の蔵書中に「算法点竄指南」三巻(天保六年刊)が見受けられるので、和算家がいたか算学塾が存在していた可能性もある。上野国にも弟子がいたといわれる種足村(騎西町)の都築源右衛門利治の弟子筋に当たる和算家が町域にいたとしても不思議ではなく、彼の門人録の精査が必要である。