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農民の衣服

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徳川家康が関東に入国したころの農民の衣服は、『落穂集』によれば「男女共に身には布子(ぬのこ)と申物を着し、腹帯を致し、わらにて髪をたばねる者ばかりの様にこれ有り候由」とあり、当時の農民の生活は貧しかったことがうかがわれる。布子とは、木綿の綿入れではなく麻布の綿入れであり、木綿はまだ農民の日常には普及していなかった。
 『慶安御触書』では「百姓は衣服として、布・木綿以外のものを帯・着物にもしてはいけない」と規制された。
 新井家に残された天保十二年(一八四一)の百間村下組の五人組帳を見ると「百姓衣類之儀結構成物を着べからず、名主ハ絹紬布木綿、妻子ニ是を着べし、平百姓ハ布木綿より外ハ着べからず、綸子紗綾縮緬(りんずしゃあやちりめん)之類ハ襟帯(えりおび)等ニも致べからず、然共百姓ニも身上宜敷者(しんじょうよろしきもの)ハ手代共迄断(ことわり)ヲ立差図請(たてさしはかりうけ)、絹紬着べく事」とある。この五人組前書は、全一九条からなるもので、元文二年(一七三七)に成立し、その後も毎年同文で五人組帳の前書が作成されている。
 こうして、江戸時代を通じ、農民の衣服は通常は木綿が用いられ、しかも地味な色彩のものに限られた。これら木綿の多くは自給自足を原則として栽培され、その多くは藍で紺色に染め、農民自ら衣服を織り着用した。
 ところが天和三年(一六八三)になると、農民・町人の衣服は絹・紬・木綿・麻布のうち分限(ぶんげん)に応じて妻子ともに着用することを許された。ただし、下女は布木綿となっている。
 安政二年(一八五五)の新井家文書の「安政二年八月晦日加津婚礼進物覚帳」の記録により、当時の婚礼の衣服についてまとめたものが3-162である。

3-162 加津婚礼進物覚帳にみる衣服