ビューア該当ページ

農民の住まい

457 ~ 459 / 660ページ
幕府は寛永二十年の御触書で、名主そのほか惣百姓とも身分相応な家作にするように規制している。
 一 里方は、屋敷の廻りに竹林を植え、下葉共取り、薪を買候わぬように仕るべき事、
 これは、竹林を屋敷の廻りに植えて、落ち葉などを集めて、薪を買わないようにすることである。
 また、享保七年(一七二二)十一月には農民に新規の家作を禁じた。しかし、一家のうち子孫兄弟の多い場合、また病身の者がいて同居できないときは、屋敷内に小屋を作るか、差し掛けしてもよいとしている。
 江戸時代の築造の民家として、現在宮代町郷土資料館内に移築されている町指定文化財である「旧加藤家住宅」がある。加藤家は蓮谷村の代々名主を勤めた家で長屋門や付属屋も配備され屋敷構えや間取り、造りなどが一般の農家よりも大きく複雑になっている。加藤家の建築年代は、解体時に屋根裏から大量に発見された古札の年号(最も古いものが文化十三年)や民家の構造などから文化十年(一八一三)ごろと推定される。
 民家の構造は、桁行二一・八一六メートル(一二間)、梁間一一・九五メートル(約六間半)、建坪約六二坪である。屋根は寄せ棟造り、茅葺き、背面は茅屋根をおろしサシとなっている。平屋建てで、一部二階になっている。母屋の裏と母屋に平行するように二か所に付属屋を設けている。
 3-164のように、土間と六つの部屋が備えられている。玄関から入って、土間右には馬屋、その奥にカマドがある。土間から座敷の部屋に上がる手前には、板張りの小縁、板の間かあり、食事は板の間でとった。部屋は田の字型(四間取り)の部屋割り(八畳×四間)と、母屋に平行して主客の間、母屋の裏側にはツノと呼ばれるいずれも八畳の付属屋がある。この四間取りの民家建築はこの地方の特色である。各部屋とも方二間の畳敷きの八畳である。

3-164 加藤家の間取り

 また、二階にはかくし部屋と呼ばれる部屋がある。
 部屋の機能について、見てみたい。
 Aの板張の部分は、アガリハナと呼ばれ、組内や近所の人が来たときやちょっとした用事の人の応対に使用する。また、植木屋さんなどの職人が休憩してお茶を飲むとき、食事をするにはここに縁台を出して使用する。Bの部屋はザシキと呼ばれ、普通のお客さんが来たときに使用する。お盆のときにはここの部屋に盆棚を飾るので盆や彼岸のときのお客はここで応対する。Cの部屋はデイと呼ばれ、結納などの改まったときに使用する部屋である。また、ヨメゴヨビやシンキヤクなどの祝儀、不祝儀はトコノマの部屋と続けて使用する。Dの部屋はヘヤと呼ばれる。Eの部屋は特に名称はない。Fの板の間は食事をする場所であり、ヒジロから釜、鍋を持って来て、ここに置き家族が囲んで食事をした。

3-165 各部屋の名称