西原(にしばら)地区では平成四年まで、代参講の当番を選ぶための集まりを二月一日に行っていた。この集まりのことを万年講という。この万年講記録の中で、最も古い記録は明和(めいわ)八年(一七七一)から文化(ぶんか)十一年(一八二八)までのものである。帳面の初めの部分が失われているため、この万年講が当初どのような目的や条件ではじめられたかということは不明である。
代参のようすを見てみたい。安永(あんえい)五年(一七七六)に「立人」という記載があり、この段階でこの講が代参を行っていたことが分かる。具体的な内容については、寛政(かんせい)十三年(一八〇一)の記録に見ることができる。寛政十三年の記録によると、榛名講と大山講が毎年代参者を立てている。この段階では「懸講利息共」の金額を家ごとに記され、この金額をもって講の運営に当たっていたことが分かる。
寛政十三年から文化八年までの間は、大山講の代参の費用が一貫五〇〇文、榛名講の代参の費用が二貫、神酒代五〇〇文、茶代四〇〇文とされ、このほか二月一日に行われる西光院行基会のお茶代として二〇〇文が割り当てられていた。この行基会のお札は、近年でも万年講のヤドの家が、万年講の会計から費用を捻出して、西光院からいただいて各家に配っていた。
万年講では二月一日に講を開き、家毎に異なる金額を定め、集まった講金を代参と行基様、宿のお茶代、神酒代に当てるというものである。