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[時代概観]

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 慶応三年(一八六七)、江戸幕府第一五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還を受けて、王政復古の大号令とともに、明治政府が成立した。天皇を中心とする中央集権国家の樹立を目指す政府は、明治二年(一八六九)に版籍奉還(はんせきほうかん)を実施した。これは土地・人民は天皇のものであるという考えに基づくもので、各藩主は土地(版)と人民(籍)を天皇に返還し、知藩事(ちはんじ)となった。さらに、同四年には廃藩置県(はいはんちけん)を断行して府県制(ふけんせい)を整備した。知藩事は罷免(ひめん)され、府知事・県令(けんれい)(後の県知事)が中央政府から派遣されて、中央集権体制の徹底がはかられた。埼玉県域には埼玉県と入間県が置かれ、宮代町域は埼玉県の管轄となった。さらに、全国の人民を把握するため同年に戸籍法が制定され、近代的土地所有と租税制度確立のため、同六年から地租改正事業が推進された。明治十一年には郡区町村編制法が公布され、宮代町域は南埼玉郡に属した。そして、町村合併が推進され、明治二十二年に百間村と須賀村が誕生した。
 明治五年に国民皆学(かいがく)の理念を基に学制が頒布され、各地に学校が建設されるようになり、宮代町域でも翌六年に進修学校、西條学校などが開校した。当初は学問を通じた個人の立身・完成が教育の主たる目的であったが、次第に教育勅語が説くような忠君愛国を中心とする教育が進められるようになった。同年には徴兵令が制定され、国民皆兵の制度が確立することになった。明治政府は、海外に対する積極政策を展開し、日清戦争や日露戦争によって、台湾・樺太(からふと)などを植民地とするようになり、同四十三年には韓国を併合して支配下に治めた。これらの対外戦争で大勢の人々が出征し命を落としており、町内の墓地にも戦没者の墓標を多く見ることができる。
 明治政府にとって、江戸幕府が欧米諸国と締結したいわゆる不平等条約を改正することが、外交上最大の課題の一つであった。そのため、岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通・木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文らが、条約改正の予備交渉のため欧米諸国を歴訪した。帰国後、留守を預かり不平士族の不満を解消するために朝鮮出兵を行うべきであるという征韓論を主張する西郷隆盛・板垣退助・副島種臣(そえじまたねおみ)らと対立し、西郷らが野に下った。下野した板垣退助らが民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくじょ)を政府に提出したのをきっかけに、自由民権運動が展開した。明治十八年に内閣制度が創設され、伊藤博文が初代首相となった。同二十二年には大日本帝国憲法が制定され、立法府として帝国議会も設置された。帝国議会は皇族・華族(かぞく)・勅任議員からなる貴族院と、国民から公選される衆議院の二院制であったが、衆議院議員の選挙権は直接国税一五円以上を納入する二五歳以上の男子にだけ与えられ、全国民の一パーセント強の代表に過ぎなかった。
 富国強兵・殖産興業(しょくさんこうぎょう)の名の下に近代化が推進され、物資や兵員を輸送するために鉄道が整備された。明治五年に東京―横浜間が官営で開業し、明治二十年前後になると、日本鉄道会社の成功などにより私鉄の計画が相次いだ。現在、南北に細長い宮代町を縦断する形で東武伊勢崎線が通っているが、明治三十二年の東武鉄道開業と同時に開設された杉戸駅(東武動物公園駅)が中心となって町域の近代化が進んだ。
 明治時代には制度だけではなく、文化的にも大きな変貌があった。西欧の文化を導入することにより、都市部を中心に文明開化と呼ばれる社会現象が起こった。宮代町域のような農村地帯では、前近代以来の伝統的な生活も続いていたが、明治十一年、和戸に埼玉県では初めてのキリスト教会が設立されたことなどから西欧文化の流入がうかがえる。当時の主な輸出品の一つである蚕卵紙を販売に行った横浜で、キリスト教と出会い洗礼を受けた小島九右衛門(くうえもん)が和戸キリスト教会設立に尽力したが、これは輸出産業と西欧文化とのつながりを示す興味深い事例である。
 大正時代になると大正デモクラシーといわれる民主主義的・自由主義的風潮が広まった。社会運動も活発となり、第一次大戦後のいわゆる反動恐慌の影響もあって、労働運動も活発になった。さらに、大正六年(一九一七)のロシア革命の成功や、同八年のILO(国際労働機構)の設立などがその傾向に拍車をかけた。宮代の周辺地域では、東武鉄道や野田醤油(しょうゆ)の争議が社会問題となった。また、土地を失って小作人となった農民と、土地を集積した地主とが、小作料の減免などをめぐって対立し、小作争議に発展したりしている。普通選挙をもとめる国民の声も高まり、大正十四年の衆議院議員選挙法の改正で、納税資格を撤廃して、二五歳以上の男子に選挙権が与えられた。同時に治安維持法が制定され、共産主義者・無政府主義者の取り締まりも行われた。
 大正十二年に起こった関東大震災は、東京を中心に大きな被害をもたらし、不況に苦しむ日本経済に大打撃を与えた。さらに昭和二年(一九二七)には蔵相の失言がきっかけとなり、預金者が引き出しのために銀行に押しかける取り付け騒ぎがおこって金融恐慌となった。東京から進出し県内に八つの支店をもつ中井銀行が、取り付けにより休業となり、金融不安が県内に波及した。宮代の近隣では久喜銀行・宝珠花(ほうしゅばな)銀行なども取り付けにあっている。同四年にはアメリカの恐慌が資本主義諸国に波及し、世界恐慌となった。この影響で都市では失業者が急増し、農村では子女の身売りや欠食児童の増加などが問題となった。
 このように国内状況が閉塞化している時期に、中国大陸への侵略が進められようとしていた。昭和六年に満州事変(まんしゅうじへん)が勃発し、十五年戦争といわれる戦争の泥沼に入っていった。翌七年には満州国を成立させ、中国東北地方を実質的な植民地とし、満蒙開拓団として多くの農民を移住させた。中国国民政府は日本の行動を不当として国際連盟に提訴し、国際連盟総会は調査団の報告に基づく勧告を採択した。これに対して日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立することになった。国内的には、五・一五事件、二・二六事件を経て軍部・右翼が台頭し、軍国主義への道を歩んだ。同十二年には、宣戦布告のないまま中国との全面戦争である日中戦争に突入した。
 昭和十五年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を形成し、アメリカ・イギリスなどの陣営との対立を決定的なものとした。アメリカは中国への援助を強化し、イギリス・オランダと共に日本資産の凍結、日本への石油の禁輸などの措置をした。日米交渉は続けられたが、アメリカ側から最後通牒(つうちょう)ともいうべきハル=ノートが提示され、日本は開戦を決定し、同十六年十二月、真珠湾攻撃、マレー半島奇襲により、対米英戦に突入した。日本軍は緒戦では優位に戦ったが、翌十七年六月のミッドウェー海戦での大敗を機に戦線の後退をよぎなくされた。国内では軍を中心に国民の統制が進み、ファシズム体制が確立した。多くの国民が出征し、「銃後」を守る人々も労働力・物資の不足、空襲などのために塗炭の苦しみを味わった。宮代町域には空襲はなかったものの、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)による被害を受けた。昭和二十年八月、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦があり、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。
 敗戦後は、アメリカを中心とする連合国軍の支配下に置かれ、民主化と経済の復興に向けての諸政策が展開された。多くの人々は食料不足・物資不足に苦しみ、配給が十分ではないため買い出しや売り食いなどで飢えを凌いでいた。翌二十一年には日本国憲法が制定され、農地解放・財閥解体など経済の民主化も進み、教育もそれまでの軍国主義的な要素を排し、民主的な教育が展開され、日本人の価値観も大きく転換された。しかし、大戦後の世界はアメリカとソ連の対立から冷戦といわれる状況となり、アメリカの日本に対する政策も転換した。緊張の続いていた朝鮮半島では昭和二十五年に朝鮮戦争が勃発し、日本には米軍を中心とする国連軍の基地が置かれ、軍需品が調達されるなどの特需で好景気を迎えた。翌二十六年にはサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本の主権は回復した。
 戦後の混乱から立ち直った昭和三十年頃から日本経済は年率一〇パーセントを超える高い成長率で高度経済成長を遂げるようになり、同三十五年に就任した池田勇人首相の国民所得倍増政策によって経済成長は加速した。この高度経済成長は同四十八年の石油危機まで続き、この時期に都市への人口流入が進んで、農業人口が減少した。高度経済成長が始まる昭和三十年、須賀村と百間村が合併して宮代町が誕生した。当時は農村地帯であったが、東京方面への交通の便がよいことなどから次第に住宅開発が進み、東京のベッドタウンとして人口が増加し発展した。