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郡役所の開庁

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明治十一年七月二十二日、郡区町村編成法が公布された。これによって従来の大・小区制を廃止するとともに府県内の行政区画を郡・区・町村の三段階に区分した。当町では明治十二年に百間中村、百間中島村、百間村、蓮谷村、百間金谷原組、百間西原組の六か村の事務を統合し百間中村の小島弥三郎が戸長に就任した。また、東粂原村、西粂原村、爪田谷村(つめたがや)の三か村、国納村、和戸村の二か村もそれぞれ戸長事務を統合した。
 埼玉県では地租改正作業が完了していなかったため、県は同月二十五日に県内区戸長に法の施行を地租改正作業終了後に延期するとの布達を行っている。そして翌十二年三月二十五日に県内最初の郡役所として北足立新座郡役所の開庁を布達している。当町が属した南埼玉郡役所は同年四月一日に北葛飾中葛飾郡役所、北埼玉郡役所、入間高麗(こま)郡役所、比企横見郡役所、大里旛羅榛沢男衾(はんらはるさわおぶすま)郡役所とともに開庁している。このほか県内には、同月三日に児玉賀美那珂郡役所が、同月五日に秩父郡役所が開庁している。

4-6 南埼玉郡役所 (岩槻市教育委員会提供)

 当町が属する南埼玉郡は戸数二万一八四、人口一一万三〇九三、町村数二二四、面積二万四三〇〇町歩余りの郡で、郡役所を岩槻町に置いている。このとき岩槻には適当な庁舎がなかったため、旧久保宿町の旧本陣斎藤慧三郎の居宅を借り受けて庁舎としている。明治十五年には北葛飾中葛飾との合併を行い、郡役所を粕壁(かすかべ)町に移転しようとする動きがあったため、岩槻町および近隣五四か村の人々は敷地一〇〇〇坪と新築費五二九三円余りを寄付し、翌十六年に郡役所(岩槻市役所)が旧久保宿町に新築されている。また、当町に隣接する杉戸町には北葛飾中葛飾郡役所(杉戸町役場)が置かれている。
 郡長は国の役人であるが、初代松岡半六、二代間中進之、三代中村孫兵衛はいずれも県内の名望家で、国から直接派遣されたのは明治二十三年に郡長となった白根勝次郎からであった。同二十二年の郡役所の職員は、合計で二四人で、書記一一人、庸員一三人で、庶務・議事・農商・税務・兵事・土木・学務・衛生・会計の九掛に分かれていた。
 明治二十三年五月、郡制が公布され、郡の地方自治体への道が開かれた。郡区町村編成法によって設置された郡は国や県の事務を行う行政区画であり、国や県の命令に基づき事務を行っていた。郡制が公布され、郡が地方自治体となって独自の事務を行う事が可能となったが、埼玉県では郡制を施行せず、その施行は同二十九年八月一日を待たなければならなかった。地方自治体へと変わった郡では、郡会および郡参事会が議決機関として設置され、郡行政は郡長が執行することとなった。