大正六年二月には、「白日社武蔵野支部」を設立し、幹事となり、同年四月より、「静汀」の号を用いた。同年五月には原三郎らと短歌結社「嬰児詩社」を設立し、『嬰児』を創刊した。「白日社」や「嬰児詩社」を舞台に旺盛な創作活動を行っていたが、大正七年には、『嬰児』が五月号をもって廃刊となり、『詩歌』十月号で廃刊となってしまう。翌大正八年六月に、結婚した静汀は、これを機に一切の文学活動をやめたようで、その後の作品は残されていない。
大正八年十月より、南埼玉郡役所書記となり、大正十一年には大蔵省に出向して税務署に勤務した。昭和四年(一九二九)、三三歳で、百間村村長に就任し、飛地の整理を目的とする土地の名称変更を行い、大字を整理して小字制とした。また、大六天(山崎)に日活の撮影所を誘致し、村を発展させる計画もあったようである。しかし、昭和九年一月二十二日、三八歳でこの世を去った。
静汀の作品は、長く埋もれていたが、三男の戸辺好郎氏より発掘・整理され、『武蔵野の歌人折原静汀―「嬰児」をめぐる青年歌人たち―』(埼玉新聞社、一九八四年)としてまとめられている。
4-9 折原静汀(『武蔵野の歌人折原静汀』より転載)