明治政府は、王政復古=古代国家の復活をスローガンに誕生した政府である。よって、古代(大和飛鳥~奈良・平安時代)にとられた政治形態である「祭政一致」(日本神にかかわる祭りと国家の政治が一致するという思想)の方針がまず取り入れられた。この「祭政一致」の中心的役割を果たしたのが、古代天皇国家にも存在した神祇官(じんぎかん)という官庁で、明治政府はこれを復活させるとともに、全国の主だった神社の神主をその職員として任命した。
しかし、当時の神社は単独で神社として成立していた訳でなく、「神仏習合」信仰(神と仏は本来一緒だったとする信仰)から、神社と寺院が混在しているところ(=仏像を神体とする神社など)が大半だった。今でも神社と寺院が隣接している所が多いのと、日本人が両方に参詣することに違和感を持たないのは、その名残ともいえる。
そこで明治政府は、慶応四年(一八六八)に「神仏分離令」を出して、神社からことごとく仏教色を排除した。また、この法令に乗じて各地で仏像や寺院を破壊する廃仏棄釈運動が起こった。人々は、この法令によって江戸時代以来、幕府がつくりあげた戸籍制度=寺請(檀家)(てらうけ(だんか))制度を担ってきた寺院(=仏教)から政策上は切り離されることになった。埼玉県内では、幕末に三六二四寺を数えたが、明治九年(一八七六)には二三三〇寺になり、同十八年には二二五八寺となった。最も盛んな維新時期には実に五七四か寺が廃止されたという。
宮代町内でも、明治になって神仏分離は推進されたと思われるが、中には神仏習合の名残を現在に伝えている「五社神社」のような例もある。五社神社は、現在町内東の新義真言宗西光院境外墓地南側に位置する。かつては西光院の境内にあり、同寺の鎮守として祀られていた。現在、五社神社には、二橋伊豆守作と銘文のある元禄十四年(一七〇一)製作の和鏡五口と同年造像の阿弥陀如来・釈迦如来・毘沙門天・千手観音・不動明王五体が御神体として祀られている。
また、神仏分離を契機として起こった廃仏毀釈運動については、宮代町では目立った動きは伝えられていないものの、明治初年を境に廃寺となった寺院も幾つか見受けられる。その一つに東粂原の西光院末の大聖院がある。大聖院は、『埼玉県郡村誌』によれば、明治七年(一八七四)に廃寺となり学校の敷地となっている。
なお、明治政府の神仏分離政策で最も打撃を受けたのが修験寺院である。明治元年、政府に修験道の三門三派跡(本山・当山・羽黒)が廃止され激減した。町内にも、江戸時代は数多くの修験道寺院が名を連ねたが、明治になって引き続き寺院として確立しているところは皆無となる。現在は、系譜をひく個人資料の中にその痕跡をみることができるに過ぎない。