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明治初期のキリスト教

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江戸幕府は、天文十八年(一五四九)にザビエルによって日本にもたらされたキリスト教を寛永十四年(一六三七)の島原の乱以降、徹底的に弾圧した。こうした幕府のキリスト教に対する弾圧・禁止は、明治維新を経て明治六年(一八七三)、キリスト教を禁じた高札を撤去し、事実上キリスト教信仰が解禁されるまで続いた。
 一方、それまでの日本でのキリスト教の中心はローマカトリック教会であったが、開国と同時にプロテスタント教会とギリシア正教会も日本に進出した。特に前者のプロテスタント教会関係では、安政六年(一八五九)十月に、アメリカ長老教会の宣教師で医師のC=ヘボンが神奈川に、同年十一月には、アメリカ・オランダ改革教会のG=Fフルベッキが長崎にそれぞれ来日し、医学や英語の教師として着任した。特にヘボンは、医師として横浜居留地に施療院を開き多くの日本人の診療に当たるとともに、日本語の研究や聖書の和訳などにも力を注ぎ、慶応三年(一八六七)には日本初の和英辞書「和英語林集成」を出版している。「同書」の第三版からは、ローマ(羅馬)字会提唱のローマ字表記法を採用し、以後この表記法は「ヘボン式」といわれる我が国でのローマ字表記の基本となっている。さらに、文久三年(一八六三)には英語塾「明治学院」(現明治学院大学)を開設し、後に神学学校となる同校の基礎も築いた。
 切支丹高札(きりしたんこうさつ)が撤廃される前年の明治五年(一八七二)二月二日、横浜に日本初のプロテスタント教会日本基督(きりすと)公会(横浜公会)がアメリカ・オランダ改革派宣教師バラの指導によって発足した。日本基督公会は、いずれの教派にも属さない無教派主義と独立自治を標榜し、各教派からも支持を得て聖書の共同翻訳作業が開始されるなど、プロテスタント信仰の拡大に大きく貢献した。また、教会も横浜だけでなく、翌年には東京築地(つきじ)に設立されたほか、全国へと次第に広がっていった。

4-10 ヘボン夫妻 (和戸教会所蔵)

 このように、日本基督公会を中心に各教派の伝道活動もますます活発化したことによって、日本人信徒も次第に増加したが、この時期にキリスト教を受け入れた階層は、旧武士出身の士族層を中心とする知識階層であった。その最大の理由は、キリスト教が「文明の宗教」と解されていた点にあった。特に、教育・医療・社会事業の面で明治政府は多くの「お雇い外国人」を招聘したが、彼らの多くは聖書を講じて欧米の文化・文明の背景にはキリスト教の精神が息づいていることを説いたため、その影響下にあった人々が信徒化するなど、彼らを通じてのキリスト教伝播には著しいものがあった。
 また、彼らの影響を受けた士族出身の信徒の中には、初期教会で指導的立場にたち、また伝道者となる者も少なくなかった。小川廉之助(当時は東京公会長老)や同じ日本基督公会横浜公会でヘボンの日本語教師だった奥野昌綱(おくのまさつな)らは、関東地方の農村部での組織的伝道を早くから行っており、明治六年十月には武蔵・下総・上総地方への第一回巡回伝道を開始し、以後埼玉県内でも所沢や県北地域で伝道活動を行ったことが確認されている。
 このように、開港場や外人居留地を拠点として始まった近代キリスト教は各地に広がっていった。