4-11 明治期の和戸教会堂
(和戸教会所蔵)
小島九右衛門は、輸出用蚕卵紙(さんらんし)販売のために横浜に出たが、胸を病みヘボンの施療院にて治療を受けるうちにキリスト教と出会い、やがてバラを紹介されて明治八年六月、横浜海岸教会にて先述した日本基督公会の設立者バラから受洗した。九右衛門は、同年秋に漢訳聖書を携えて帰郷、郷里にて伝道を開始した。
九右衛門をヘボンやバラに紹介したのは後に和戸教会設立の際に、信徒として九右衛門とともに尽力した和戸村の医師篠原大同であった(明治十三年三月二十六日付「七一雑報」)。大同は、後述するように、和戸村の医師として教会での医療伝道を中心に明治初期の地方医療にも貢献したが、彼の医学上の師は「平文先生」こと横浜施療院のヘボンであった。彼が明治八年五月、小島九右衛門にヘボンとバラのことを告げたことが九右衛門キリスト教入信の契機とされている。
4-12 小島九右衛門
(和戸教会所蔵)
4-13 小菅幸之助
(和戸教会所蔵)
また、和戸教会設立には、もう一人重要な人物がかかわっていた。それは、九右衛門を頼って横浜に赴いた、同村の大工小菅幸之助である。幸之助は、同郷の九右衛門を頼って横浜に出たが、そこで九右衛門を通じキリスト教について触れた。明治九年五月二十八日、幸之助は九右衛門と同じくバラから受洗、同年十月に帰郷し、九右衛門と伝道を開始するとともに、バラが牧師を勤める横浜海岸教会の執事職にも就いた。一方、幸之助は大工としての腕を発揮して、多くの教会堂建設を手がけた。彼がその建築に関わったものの中には、横浜海岸教会・指路教会のほか、群馬の沼田教会や横浜のフェリス女学校も含まれ、近代建築の基礎を築いた点でも高く評価されよう。
小島九右衛門や小菅幸之助による郷里和戸での伝道活動は次第に熱を帯び、明治九年十一月にはバラ、翌十年にはスコットランド伝道会社の宣教師ワデルとフルベッキ、奥野昌綱らが和戸を訪れて伝道した結果、次第に信徒も増えていった。同十一年十月二十六日、九右衛門は機が熟したとして自宅を解放、日本基督公会の流れを汲む一致教会の一会堂として「日本国基督一致和戸教会」を設立した。教会設立委員としては、アメルマンと奥野が出席し、長老に九右衛門、執事に小菅幸之助と篠原大同の弟で後に杉戸講義所の設立に尽力した牧二郎が選出された。
なお、和戸教会が設立された明治十一年ごろの全国のプロテスタント教会数は四四、信徒数は一六一七人で、このうち半数は関東の教会が占めている。その内訳は、東京一二、神奈川四、千葉三、群馬二、埼玉一(和戸教会)となっており、この数値は、江戸に近く幕府の徹底した禁教政策が色濃く残っているこの地域にあっても、さまざまな従来の慣習や迫害と戦いながらキリスト教が確実に民衆の間に拡大していったことを物語っている。