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和戸教会と外国人宣教師の活動

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次に和戸教会での伝道活動についてみていきたい。
 和戸教会の信徒数は、創立当初の明治十一年には一三人、同十三年には三五人、同十八年には六五人と飛躍的に増加している。信徒の受洗年齢は二〇歳代が最も多く、三〇歳代がこれに次いでおり、青年・壮年層が半数を超えている。その背景には、このような世代の西洋文化に対する受容性の高さがうかがえるとともに、彼らの疑問に十分応えられるだけの内容をもった、当時第一線で活躍していた外国人宣教師達による和戸教会での講義(説教)を中心とする伝道活動が大きく起因していたと思われる。
 和戸教会を訪れた宣教師の中心的人物はバラであり、彼は先述した小島九右衛門や小菅幸之助といった和戸教会設立に深く関与した両名に洗礼を授けただけにとどまらず、教会設立後もこれを陰になり日向になりして支え、大正八年(一九一九)に帰国するまでの間、度々和戸教会を訪れては講義を行った。明治二十七年(一八九四)の和戸教会信徒名簿(「明治二十七年 人名簿」)には、バラから洗礼を受けたとする多くの信徒の名前が見え、彼の力なくして和戸教会の草創期の活動は成しえなかったともいえる。なおバラは、和戸を訪れた際には小菅幸之助宅を常宿所とし、大正七年の幸之助の葬儀にも参列している。

4-14 信徒名簿 (和戸教会所蔵)

 また、和戸周辺の粕壁(かすかべ)(春日部市)・杉戸といった周辺地域への伝道という点では、フルベッキの伝道活動も注目される。彼は、会堂設立の前年に当たる明治十年、同十五~二十五年、同二十八年にそれぞれ数回、和戸や杉戸の清地(せいじ)、粕壁で信徒や多くの聴衆に対して伝道会を開いた。彼の集会には一〇〇人以上の参加があったという。また、同十五年に和戸教会は教会堂を建築するが、建築委員として彼の名前が見えることも注目される。
 さらに、来会したという明確な記録は残っていないものの、明らかに和戸教会とかかわりが深い人物にヘボンがいる。ヘボンは先述したように医師の立場から小島九右衛門を治療しただけでなく、九右衛門をキリスト教に導き、和戸教会設立の契機となった人物である。また、九右衛門とヘボンの仲介者である篠原大同の医学上の師としての足跡も、後述するコラムにみるように「ヘボン膏(こう)」という形で和戸周辺に伝えられている。篠原大同は、後に和戸教会で医療伝道を行い、明治二十三年の一年間だけでも一一四八人もの患者を施療している(「西部講義所派遣伝道記録」)が、これはヘボンが横浜施療院で行っていた活動の地方版であり、まさしくヘボンの意志を受け継ぐ活動であった。西洋医学による治療がまだ珍しかった当時にあって先進的な医療施術が受けられた和戸地域は、地方での近代的医療普及の点からも恵まれた地域であったといえるだろう。数値的には施療を受けた人々が信徒となる率は低かったようであるが、医療を通したこのような伝道活動が和戸教会で実施された事実は社会事業としても高く評価されるべきだろう。

4-15 西部講義所派遣伝道記録(和戸教会所蔵)

 このほかにも、和戸教会にかかわった外国人宣教師には会堂設立時に来会したワデルやアメルマン、明治十五年の会堂建築委員にバラやフルベッキとともに名を連ねるミロルらがいる。彼ら外国人宣教師たちの影響を受けた奥野昌綱や植村正久らも加わって、和戸教会の講師陣は当時のプロテスタント教会の最高水準にあったといってよい。やがて彼らの教えを受けた信徒たちが、和戸教会、ひいてはこの地域でのプロテスタントキリスト教信仰の基盤を築き上げていったのである。
 明治十四年に和戸教会は、杉戸宿(杉戸町)で白木綿問屋を経営する篠原大同の弟牧治郎が同地に講義所を設立し、次いで粕壁(春日部市)へと伝道を進めていった。
 翌十五年には和戸教会堂の建築が始まった。当初は小島九右衛門宅にあった教会は、和戸二〇番地(和戸交差点付近、その後現在地に移転)に会堂を建築することになり、同年五月に起工、同年十一月二十六日に献堂式が挙行された。建築委員には先述したようにバラ、フルベッキら錚々たる外国人宣教師が名を連ねた。建築費用は三一〇円で、米国ミッションによる寄付金と信徒の献金が充てられた。
 また、同十七年には和戸教会の信徒の尽力によって杉戸講義所にも会堂が建てられた(現在の同盟杉戸教会周辺)ほか、同二十九年五月には篠原牧治郎が教線を伸ばした粕壁教会堂も竣工した。この段階で和戸教会は杉戸・粕壁の二会堂を含め、信徒数一四五人を数えるに至り、県東部でのキリスト教信仰の中心地となった。