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学制の頒布

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明治政府は、富国強兵の理念に沿って欧米人と遜色(そんしょく)のない国民を育成するため、明治五年(一八七二)に学制を頒布している。近代教育の理想を求めたその根本精神は、普通教育の振興と実学の奨励であった。政府の教育に対する意気込みは、同年八月二日の太政官布告「学事奨励に関する被仰出書」の中で、「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と教育の必要性を述べている。当町では、進修学校・中島学校・西條学校・和戸学校が明治六年から九年にかけて開校している。

4-17 進修学校受取書
(小島家文書)


4-18 西條学校が記載される願書(岡安家文書)

 進修学校は、百間東、前原、金原、逆井、山崎、百間中を区域とし、明治六年十一月二十八日に開校している。百間小学校沿革誌には、同六年五月十五日に西光院を校舎として開校し、翌七年九月に進修学校と称すようになったとある。同九年の生徒数は男子が一一八人、女子が七三人で、教員は男性が三人であった。また、学区は第一二番中学区第六区の一四九番学校で、同十一年に百間学校と改称し、同十五年には南埼玉郡三三学区に属している。
 中島学校は道仏学校とも呼ばれ、道仏、川島、若宮、柚の木、中須、内野、松の木島を区域とし、医王院を校舎として明治九年四月一日に開校している。同年の生徒数は男子が三七人、女子が一七人で、教員は男性が一人であった。また、学区は第一二番中学区第六区の一五二番学校で、同十五年には南埼玉郡三三学区に属している。
 西條学校は、東粂原、西粂原、須賀、国納の一部を区域とし、当時廃寺であった大聖院を校舎としてに明治六年に開校している。その後、同十年七月に久米原学校と改称している。同九年の生徒数は男子が九五人、女子が六人で、教員は男性が二人であった。また、学区は第一二番中学区第六区の一五四番学校で、同十五年には南埼玉郡四三学区に属している。
 和戸学校は観音寺学校とも呼ばれ、和戸、国納の一部を区域とし、当時廃寺であった観音堂を校舎として明治七年三月二十五日に開校している。同九年の生徒数は男子が五七人、女子が二八人で、教員は男性が二人であった。また、学区は第十二番中学区第七区の一八六番学校で、同十五年には南埼玉郡四三学区に属している。

4-19 小学規則休業達書(岡安家文書)


4-20 久米原学校校則(岡安家文書)


4-21 久米原小学校(旧大聖院)前での記念写真(明治時代)(矢部氏所蔵)

 第十二番中学区第六区には、進修学校、中島学校、西條学校のほかに、鶏鳴(けいめい)学校(杉戸町)、博愛学校(杉戸町)、安戸学校(幸手市)、新知学校(杉戸町)が属し、鶏鳴学校が本校であった。第一二番中学区第七区には、和戸学校のほかに、幸手学校(幸手市)、八甫(はっぽう)学校(鷲宮町)、啓蒙学校(幸手市)、川崎学校(鷲宮町)、大輪学校(鷲宮町)、円藤学校(幸手市)、惣新田学校(幸手市)、神明内学校(幸手市)が属し、幸手学校が本校であった。
 このように、学校が設置されても学校や学問の必要性を感じるものは少なく、就学を奨励することは難しいものがあった。明治十年の当町を含む第六区の学齢人口は二二五〇人、就学者は一〇〇〇人で、就学率は四四・四パーセントであった。また、第七区の学齢人口は二九五〇人、就学者は一二二五人、就学率は四一・五パーセントであった。埼玉県の就学率は三八・八パーセント、全国の就学率は三九・九パーセントであり、特に女子の就学率は男子の三分の一程度であった。
 不就学の理由としては、子守、病気、家事手伝い、奉公などが多く、当時の子供たちは貴重な労働力であったことがうかがえる。また、教科書や学用品などの費用負担はもちろん、授業料や学校経費も父母の負担であった。第六区では、学校維持の費用として戸数割で一戸当たり一銭ずつ毎月集金すると同時に、学校永続金として一時金一〇〇〇円を積み立て、授業料は一二銭五厘と六銭二厘五毛、三銭に分けられており、学区内の集金が不足した場合に徴収した。第七区では、学校維持の費用として戸数割で一戸当たり一銭ずつ毎月集金すると同時に、学校積金として一七〇〇円を積み立て、授業料は六銭二厘五毛と四銭、三銭に分けられていた。