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教育令の発布と教育勅語の発布

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「学制」以前の教育は学ぶことが目的であったが、「学制」は進級や卒業のために試験を行うことが規定されていた。「学制」に基づいて規定された教科や教則が、当時の民衆に受け入れられなかったようで、「学制」の頒布以降の就学状況は明治八年までは上昇傾向であったが、その後は停滞気味であった。また、教則や学科が適当でなかったことや地方制度の改革などによる教育法規の改正が必要となっていた。
 このような状況の明治十二年に「教育令」が公布された。この「教育令」は、アメリカ合衆国の地方分権的教育制度を参考にして制定されたものであったため、地域の状況に応じて学期や学科を変更できるものであった。しかし、地方自治の土壌が形成されていない地域では就学率は減退し、政府は翌十三年十二月には早くも「教育令」の改正を行っている。この改正によって「学制」による近代的知識優先の教育から徳育優先の国家主義教育政策へと変化していった。
 明治十八年の内閣制の施行により初代文部大臣となった森有礼(もりありのり)は、翌十九年に帝国大学令、小学校令、中学校令、師範学校令の四つの学校令を定め、今までの包括的な教育法規から学校種別ごとの法規へと変化させ、近代日本の学校制度の基礎を築いた。その後明治三十年代までの何度かの改正を経て、日露戦争以降の初等教育の著しい普及の基盤となっている。
 明治の教育に関する法令は、明治二十三年十一月に帝国議会が開設されてから議会の審議を経ず、勅令という形式で公布されていた。教育は国家固有の事務であり、国民全体の幸福にかかわることであるので、一党一派の利害に左右される議会に付すものではなく、政治的中立を確保する必要があると考えられていた。これは、司法権が政治から独立しているように、教育も政治から独立させる必要があるとの考えで、近代公教育の原則となっている。
 明治の教育といえば、「教育勅語」がその象徴といえよう。「教育勅語」は、明治二十三年十月三十日に明治天皇が下した「教育ニ関スル勅語」を略したものである。全文三一五字からなる「教育勅語」は、法令の形式をとらないため、法的な拘束力は持っていなかったが、天皇の言葉として発せられたため、絶大な権威を持つものとなった。また、同三十三年の文部省令小学校令施行規則では、三大節の式日には、「御真影(ごしんえい)」への最敬礼と併せて、「教育勅語」の奉読と勅語の趣旨に沿った学校長の訓話を行うように定めたため、法律以上の拘束力を持つものとなった。

4-22 百間小学校校務係任命書(小島家文書)

 また、「学校沿革誌」によると、百間小学校でも明治二十三年十二月二十七日には教育に関する勅語謄本が、同二十五年十月三十一日には明治天皇、昭憲皇太后の御影が下付され、大正四年十一月八日には大正天皇の御影が、さらに同九年三月九日には大正天皇、皇太后両陛下の御影が下付されている。昭和三年十月十日に昭和天皇、皇后両陛下の御影を下付されたが、同六年一月十九日に奉還し、同月二十四日に再び下付されている。また、同八年四月十四日には明治天皇、昭憲皇太后、大正天皇、皇太后陛下の御影が奉還されたとある。

4-23 旧百間小学校(宝生院)教場配置図(小島家文書)

 須賀小学校では、「御真影」と「教育勅語」を収めるために奉安殿の建設を行い、昭和十二年四月十一日に竣工式を挙行し、翌十三年十月二十六日に御真影が下付されている。

4-24 須賀小学校奉安殿