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百間小学校の沿革と校舎建設

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百間小学校は、現在では五月十五日を開校記念日としているが、百間尋常高等小学校時代に作成された「学校沿革誌」を見ると、校舎新築の落成式を挙行した明治四十三年(一九一〇)三月二十八日を創立記念日としている。
 「学校沿革誌」には、校舎建設以前の沿革の記載もあり、明治六年五月十五日に百間東の西光院を校舎として開校し、翌七年九月に進修学校と称し、その後翌八年三月三十一日には百間東村の宝生院(ほうしょういん)に移転するとある。また、同十五年九月十三日には、初・中・高等科を置く百間学校の設立を埼玉県令から許可され、同十九年四月十五日には小学校令の改正に伴って校名を百間尋常小学校と改めているとあり、さらに同四十一年二月三日には校舎新築の認可を受け、この認可に基づいて同四十三年三月二十八日に校舎の新築が落成した同日を創立記念日としている。このとき埼玉県知事を招待して落成式を挙行しており、当時は、この校舎建設によって百間尋常小学校が創立したもので、それ以前の百間尋常小学校は仮の小学校という認識があったと思われる。
 このときの百間尋常小学校の敷地は六段四畝五歩で、百間村字西原二六一番地に普通教室が七、職員室・宿直室・応接室・小使室・そのほかが一つずつ、便所が二つの校舎および付属の建物を建設している。費用は総額一万二一一円一六銭で、その内訳は敷地の買収に一五八八円五六銭、校舎および付属建物の建設に八〇〇〇円、雑費として二四五円二七銭、落成式挙行に三七七円三三銭であった。

4-26 百間小学校進修館

 その後の校舎などの建設は、明治四十四年十二月二十四日には普通教室が一の建坪二九坪二合五勺、総経費一〇〇〇円の増築が、大正六年(一九一七)三月十四日には普通教室が二、特別教室として裁縫室が一つの総建坪七六坪五合の第二次増築が行われ、同十五年五月十二日には学校敷地の拡張が認可され、同年七月十九日には増築移転が認可されている。この認可に基づいて行われた増築および移転改築は、同年十一月二十八日に落成している。このときの増築は八教室、建坪一〇八坪の二階建ての校舎と便所一棟で、移転改築は四教室、建坪一〇五坪七合五勺の平屋建ての校舎と便所一棟であった。
 このような経過を経て、百間尋常小学校は九段九畝二八歩の敷地に、校舎を南南西向きのコの字形に配置した第一校舎、第二校舎、第三校舎、進修館の四棟をコンクリートの渡り廊下で行き来できるようになっている。第一校舎は平屋建て瓦葺きで明治四十三年建築のもの、第二校舎は二階建てスレート葺きの大正十五年建築のもの、第三校舎は平屋建て瓦葺きの大正六年に建築されて同十五年に移転したもの、進修館は、明治四十四年に建築されて大正十五年に移転して改築したものであった。室数は普通教室一四、理科教室一、裁縫教室一、唱歌教室一、家事・手工教室一、図書室一、職員室一、宿直室一の合計二一室であった。四棟の校舎のほかに使丁室、物置が各一棟、便所が四棟あり、便所のうち一棟は運動場にあった。その後、明治四十三年建設の校舎の補強工事を行い、昭和十一年七月十九日に竣工している。

4-27 百間小学校配置図(大正15年)

 大正四年三月十七日には、高等小学校の教科を併置することを許可され、同年六月二十八日に高等科の教科に農業科を置くことを許可されている。同六年四月一日には、若宮青蓮院(しょうれんいん)の分教場を廃止している。昭和十六年四月一日には勅令第一四八号により百間国民学校と改称し、同二十二年四月には百間小学校と改めている。現在の校歌は昭和四十三年二月一日に制定されたものであるが、大正六年六月二十五日に島村盛助作詞、楠美恩三郎作曲の校歌が認可されており、現在のものとは違う校歌が歌われていた。
 昭和八年一月十三日には川島分教場の新築が認可され、同月十六日には川島分教場の位置の指定を受け。同年四月三日には四教室の川島分教場が落成している。川島分教場は、昭和三十三年四月一日に独立し、東小学校となっている。