一高時代の英語教師夏目漱石に学び、大きな影響を受けて東京帝大在学中より苳三(とうさん)の名で小説、翻訳、随筆、創作童話などを発表した。文筆活動を通じて、高村光太郎、北原白秋、森田草平、鈴木三重吉などと交友があり、ともに活躍した。
明治四十四年に私立下野中学校(作新学院)教諭となり、大正元年(一九一二)には、私立埼玉中学校(県立不動岡高等学校)教諭となって、英語の指導をした。埼玉中学校の教え子の一人は「先生の第一時間目の授業の感激を私は七〇年後の今でもなお肌身にしみじみと感じるのである。従来の謂わば「逐語訳」から一挙に「生き生きとした」英文和訳にまざまざと接したからである」と回想している。
大正九年七月に旧制山形高等学校教授に任じられ、大正十一年十月から、文部省から英語科及び語学教授法研究のための英国在留を命じられ、翌十二年十二月に帰国するまで、オックスフォード大学で研究活動を行った。帰国後は、英語教育に力を注ぐとともに、昭和五年(一九三〇)から、同僚の田中菊雄の協力を得て、『岩波英和辞典』の編纂に着手した。
『岩波英和辞典』は、昭和十一年に完成し、土居光知・田中菊雄との共著で刊行された。昭和十五年には、八年に及ぶ訳業を経て、エドウィン・アーノルド著の『亜細亜の光』を、島村苳三の名で岩波文庫として刊行した。昭和十九年、山形大学を退官して、百間村に戻った。昭和二十七年四月二十二日に六七歳で没するまで、県立川越中学校(川越高等学校)や埼玉大学、母校である第一高等学校などに出講しながら、翻訳を手がけ、ミルトンの『失楽園』の翻訳を完成させている。なお、大正六年に百間小学校校歌の作詞も手がけている。
4-32 島村盛助
(『失楽園』より転載)